宿命転換 of 日蓮仏法

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日蓮仏の宿命転換  

日蓮聖人年表(大石寺版)
西暦 和暦 政治 聖寿  聖人と門下の事跡 関連事跡
 1221 承久3

    承久の乱おこる 後鳥羽法皇を隠岐国へ配流 順徳上皇を佐渡国へ配流 土御門上皇を土佐国へ配流
1222 貞応1
 北条義時 1  2月16日 安房東条郷小湊に生まる 幼名善日麻呂
法然没後10年 専修念仏始唱後48年 道元23歳 叡尊21歳  忍性(良観)6歳 鎌倉大地震 彗星出現 蒙古アジア全域に勢力拡大
1223 貞応2   2 
道元入宋 幕府土御門上皇を阿波に遷す
1224 元仁1   3 
親鸞教行信証を著す 北条義時卒62歳 幕府専修念仏を禁ず
1225 嘉禄1    4    慈円寂71歳 朝廷新制36条を下す 幕府評定衆を置く 
1226 嘉禄2   5 
藤原頼経征夷大将軍に任ぜらる 7月鎌倉に霜降る 太政官文殿焼失
1227 安貞1   6 
鎌倉大地震 北条時頼生まる 山徒法然の墓を破却 法然弟子隆寛•幸西•空阿等遠流 山徒選択集の印板を焼く 道元帰朝
1228 安貞2   7

興福寺衆徒 多武峯堂舎僧房等を焼く 六波羅 高野山僧徒の帯杖を禁ず
1229 寛喜1 北条泰時 

奈良僧徒の帯杖を禁ず
1230 寛喜2
9 
四条金吾生まる
6月武蔵金子郷•美濃蒔田荘等に降雪 7月諸国に霜降る
1231 寛喜3
10 

大飢饉 土御門上皇阿波に崩ず37歳 朝廷新制42条を下す
1232 貞永1
11 

明恵寂60歳 北条泰時御成敗式目51箇条を制定施行 親鸞関東を発し京に向かう 彗星出現
1233 天福1
12 
安房清澄寺に登る
道元 山城宇治に興聖寺を創す
1234 文暦1
13 

幕府 専修念仏を禁ず 8月京都大火 後白河上皇崩ず23歳
1235 嘉禎1
14


幕府 専修念仏を禁ず 京都に疱瘡流行す 奈良の衆徒 春日神木を奉じて入京せんとし宇治に至る
1236 嘉禎2
15
奈良の衆徒 神木を宇治に棄て退散す 幕府 使いを宇治に遣わし興福寺衆徒を論す 4月京都大風雷雨あり 大雹降る
1237 嘉禎3
16 道善坊について得度し、是生房蓮長と名乗る
幕府 諸社寺及び国司領家の訴訟は式目に不拠とす 四天王寺 乱闘
1238 暦仁1
17

安房清澄寺において授決円多羅義集唐決上を写す

僧浄光 鎌倉に大仏造営をはじめる 北条泰時 大蔵経を円城寺へ奉納
1239 延応1
18
後鳥羽上皇隠岐に崩ず60歳 論旨を下して人身売買を禁ず 彗星出現
1240 仁治1
19
鎌倉地震 幕府政所焼ける 祇園犬神人山徒の命により念仏を停止す
1241 仁治2
20 鶴岡八幡において大蔵経を閲す
2月鎌倉大地震 4月再び鎌倉大地震 藤原定家卒80歳 幕府武蔵野に水田を開く
1242 仁治3 北条経時
21 戒体即身成仏義を著す 叡山遊学
北条泰時卒60歳 順徳上皇佐渡に崩ず46歳
1243 寛元1
22  戒法門を著す  鎌倉大仏供養
1244 寛元2   23  色心二法抄を著す 幕府 後鳥羽院追福のため法華経百部摺写 波多野義重 越後国大仏寺(永平寺)を建立し、この日 道元入院開堂す 
1245 寛元3
 
 
24  日朗 下総平賀に生まる 叡山横川定光院に住す 幕府 殺生を禁ず 京都大地震 幕府 諸国の悪党を隠す者の所領を没収せしむ 
1246 寛元4   北条時頼  25  日興 甲斐大井庄鰍沢に生まる 三井及び南都に遊学し又京泉涌寺に道隆を問う  北条光時 将軍頼経と謀り、執権時頼を除かんとす 北条光時伊豆に流罪 越前大仏寺を永平寺と改める 宗僧道隆 来朝 
1247 宝治1   26  南都薬師寺に大蔵経を閲す 北条時頼 三浦泰村を討つ 僧道元 鎌倉に赴く 聖徳太子著法華義廠を開版 蒙古軍 高麗を討つ 
1248 宝治2   27  藤原為家に歌道及び書道を学ぶ 高野•三井等遊学 又法印真広を介して東寺•仁和寺に遊学  幕府 百姓と地頭との訴訟の法を定める 
1249 建長1   28  叡山に帰り定光院に住す 京都大火 閑院内裏焼失 高野と伝法院と合戦す 
1250 建長2 
  29  摂津天王寺に遊学 日時 駿河松野に生まる  幕府 庶民の帯刀を禁ず 
1251 建長3
30  京五条坊門富小路に五輪九字秘釈を写す 北条長時 鎌倉に浄光明寺を創す 鎌倉大火 幕府 鎌倉市街商売の区域を定む 僧了行等謀叛を企て誅せらる
1252 建長4    31  叡山を下り三井に遊学 寂日房日華生まる 鎌倉大火 宗尊親王の病気平癒を祈念し大仏を造り深沢に安置す 幕府諸国に沽酒の禁制を下す  
1253 建長5
32 

日向上総に生まる 安房清澄寺に宗旨建立の内証を宣示 4月28日 安房清澄寺に立宗開宗 草庵を鎌倉松葉が谷に構う 日昭入門 富木常忍入信 富木殿御返事を著す 父母を授戒し日蓮と更名

鎌倉大地震 道元寂54歳 時頼 鎌倉に建長寺を創し道隆を請ず 
1254 建長6    33  日朗入門 鎌倉大火 鎌倉に大風起こり政所文書類散失す 京都大地震 7月大風雨 


1255 建長7
34  蓮盛抄•諸宗問答抄•一生成仏抄•主師身御書を著す 興福寺衆徒ら東大寺の坊舎を焼く 弁円東福寺を創す 
1256 康元1 北条長時
35  四条頼基•進士善春•工藤吉隆•池上宗仲•荏原義宗等入信 十二因縁御書を著す 時頼 鎌倉に最明寺を建立 鎌倉大風•洪水•疫病流行 北条時頼 道隆により落飾 法名覚了房道崇 
1257 正嘉1
36  三種教相事•衣座室御書•六凡四聖御書を著す 2月太政官庁 焼失 7月1日加賀法印 祈雨 8月1日鎌倉大地震 8月23日鎌倉社寺 大地震により一宇も残さず倒壊 11月8日鎌倉大地震 
1258 正嘉2
37  駿河岩本実相寺に大蔵経を閲す 駿河岩本実相寺学徒 甲斐公(日興)入室し名を伯耆房と賜る 聖人父 妙日 卒 一代聖教大意を著す 一念三千法門を著す 和泉公日法 下野小山に生まる 1月鎌倉寿福寺及び若宮宝蔵•同別当坊等 焼失 8月1日大風 諸国田園損亡 10月16日鎌倉大雨洪水 蒙古 高麗を征服


1259 正元1
38 守護国家論•念仏者追放宣旨御教書事•十法界事を著す 南条時光生まる 北条重時 極楽寺を創す 春大飢饉 大疫病 蒙古 宋に侵入


1260 文応1
39

災難退治抄を著す 十法界明因果抄を著す 唱法華題目抄を著す 7月16日立正安国論を幕府に献ず【第一回国家諫暁】 8月27日 松葉が谷法難 下総富木邸に百座説法 比企大学三郎•太田乗明•曽谷教信•秋元太郎等 入信 日目 伊豆仁田郡畠郷に生まる

1月幕府六斎日•二季彼岸の殺生禁止を命じる 4月29日鎌倉大火 6月1日鎌倉大風•洪水 6月12日幕府 諸国の社寺に疾疫退治の祈祷を命ず 8月諸国大風 諸国に飢饉•疾疫止まず 11月醍醐寺の諸堂焼失する フビライ汗即位•世相となる 


1261 弘長1
40

5月12日伊豆流罪 日興供奉 日興 伊豆宇佐見•吉田の地に弘教 伊豆の地頭八郎左衛門より海中出現の仏像を受ける 船守弥三郎殿許御書を著す

2月幕府 関東諸国の僧徒を戒しむ 3月幕府政所•公文所•問注所焼失 時頼 良観を請じて光泉寺を建立 北条重時 卒64歳 


1262 弘長2
41

四恩抄を著す 教機時国抄を著す 寂仙房日澄生まる 顕謗法抄を著す 熱海真言僧金剛院行満 日興により改衣して日行と名乗り自坊を大乗寺と号す

西大寺叡尊 北条実時の請いより鎌倉に下向す 北条業時 多宝寺を創し良観を請ず 親鸞 寂90歳 


1263 弘長3
42

流罪赦免鎌倉に帰る 持妙法華問答抄を著す

8月14日 諸国大風 11月北条時頼 法名道崇 最明寺に卒37歳 幕府 時頼逝去による御家人の出家を禁ず 


1264 文永1 北条政村 43

当世念仏者無限地獄事を著す 安房に帰り母の病気平癒を祈る 11月11日 安房東条小松原にて地頭景信に要撃される、鏡忍房•工藤吉隆殉難 11月14日安房花房蓮華寺にて師道善房と会す 日向入門 題目弥陀名号勝劣事を著す

山徒自ら延暦寺を焼く 山徒園城寺戒壇を焼き梵鐘を奪う 7月5日 大彗星 北条長時 卒35歳 


1265 文永2
44

南条兵衛七郎 法号行増(時光父)卒 南条兵衛七郎の墓参のため駿河上野に下向 南条七郎五郎生まる 女人成仏抄•薬王品と得意抄を著す 太夫阿日尊生まる

4月朝廷 延暦寺僧徒の帯状•博変および俗体の従僕を禁ずる 5月三井寺を焼く 6月鎌倉大雨 


1266 文永3
45

法華題目抄を著す 念仏者臨終現悪相御書を著す

3月幕府 引付衆を廃し問注所に命じ評定衆をして聴訴せしむ 5月園城寺堂塔を焼く 7月北条時宗 将軍宗尊親王を廃す 8月京都•西国 大風 叡山文殊楼•総持院など倒壊 


1267 文永4
46

聖人母 妙蓮尼 卒 安房より上総藻原を経て下総富木邸に越年 日頂入門

5月京都長雨洪水 8月良観 鎌倉極楽寺に入る 


1268 文永5 北条時宗 47

安国論後勘由来を著す 宿屋入道許御状を著す 駿河岩本実相寺大衆愁状を幕府に呈す 宿屋入道再御状を著す 十一通御書を著す 弟子檀那中への御状を著す 聖愚問答抄を著す

1月18日 蒙古国牒状鎌倉到着 2月 幕府 蒙古•高麗の国書を奏す 2月 北条時宗 蒙古の使いを退く 北条時宗 駿河岩本実相寺山内粛正につき下文を与える 4月幕府  諸社寺に蒙古調伏を祈らしむ 7月朝廷 異国降伏を祈願する 道隆鎌倉禅興寺開山となる 


1269 文永6
48

門注得意抄を著す 金吾殿御返事を著す 再び処々へ諌状を送る 駿河実相寺大衆 幕府に訴状を呈す 波木井実長日興により入信

3月7日蒙古使黒的ら高麗使と対馬に来て返牒をしのち島民を略奪して去る 法皇 御所にて評定があり蒙古の返牒を議す 蒙古重ねて来牒 


1270 文永7
49

法門申さるべき様の事を著す 善無畏三蔵抄•真言天台勝劣事•真言七重勝劣を著す 日持入門

1月蒙古船 対馬に至る 1月朝廷 蒙古への返牒を鎌倉へ下す 幕府これを押さえて送らず 房総諸国に疫病流行 


1271 文永8
50

評定所に召し出され平頼綱に見参す 9月12日 平頼綱を諌む【第二回国家諫暁】 9月12日 竜口法難 相模依智本間邸に送られる 日朗ら5人と投獄される 転重軽受訪門を著す 本尊を顕す 10月10日相模依智本間邸を発し佐渡に向かう日興供奉 10月21日越後寺泊に着く 10月28日佐渡に着く 11月1日佐渡塚原の配所に入る 三位日行 京より鎌倉に帰る 阿仏房•千日尼入信

6月18日から7月4日まで良観が雨を祈るも雨は降らず大風あり 浄土僧行敏が聖人を難問 9月幕府 高麗の牒状を奏す 9月幕府 蒙古の襲来に備え海防を強化する 9月23日蒙古 三度来牒 10月23日法皇 公卿をして蒙古の牒状を議せしむ 11月23日両日(二つの太陽)並び出る 12月勅使を伊勢に遣わして異国降伏を祈らせる 蒙古 首都を大都(北京)におき、国号を元と改める 


1272 文永9
51

1月16日から17日 塚原問答 1月16日本間重連に自界叛逆を予言 最蓮房入信 生死一大事血脈抄を顕す 2月18日本間重連入信 草木成仏口決を著す 開目抄を著す 佐渡御書を著す 一の谷へ移居 乙御前母に日妙 鎌倉より佐渡へ詣でる 立正安国論の書写送付を富木常忍に依頼(安国論送状) 真言見聞」を著す 日目 走湯山円蔵坊に入る13歳 祈祷抄を著す

評定衆名越時草•同教時伏誅 5月高麗の使 元の牒状を携えて来る 覚信尼、親鸞の墓を京の大谷より吉水に移し庵室を建てる 


1273 文永10
52

如来滅後五五百歳始観心本尊抄を著す 諸法実相抄を著す 如説修行抄を著す 四条金吾鎌倉より佐渡に詣でる 顕仏未来記を著す 経王殿御返事を著す 当体義抄•呵責謗法滅罪抄を著す 曽谷教信 本尊抄を拝し迹門不読の義を唱える

3月9日会津大地震 3月元使趙良粥 太宰府に来たるも京に入るを得ずして去る 7月佐渡に石灰虫降り稲害 12月7日良観弟子道観らの訴えにより佐渡の領主武蔵前司宣時私の御教書をもって聖人の外護を禁ず 一遍 時宗を開く 


1274 文永11
53

2月14日幕府 赦免状を発す 3月8日赦免状佐渡に着く 3月13日一の谷を発つ 日興供奉 3月14日真滞在 3月16日越後柏崎へ着く 3月26日鎌倉に着く 4月8日平頼綱に見参【第三回国家諫暁】 5月12日鎌倉を発つ 5月13日竹の下に着く 5月14日車坂に着く 5月15日駿河大宮に宿す 5月16日南部に着く 5月17日波木井に着く 法華取要抄を著す 6月17日身延の沢に庵室成る 日興 駿河岩本実相寺方面に往復して弘教する 顕立正意抄を著す 12月 本尊を顕す【万年救護本尊】 日目 初めて日興に謁す15歳

1月23日佐渡西方に二つの日出現 2月5日佐渡東方に二つの明星出現 4月10日加賀法印 祈雨 4月12日鎌倉大風 8月宗尊親王 卒33歳 10月5日 蒙古来襲【文永の役】 


1275 健治1
54

1月下旬 日興 南条家に至り故兵衛七郎行増の墓に代参し富士下方に弘教する 富木尼御前御返事•大悪大善御書を著す 撰時抄を著す 6月佐渡国府入道身延に参詣 日興の教化により駿河熱原竜泉寺寺家下野房日秀•越後房日弁•小輔房日禅•三河房頼円および在家若干帰伏して弟子となる 6月竜泉寺大衆の改宗により院主•謗徒等からの迫害おこる 日興及び日向•覚乗房 富士加島高橋家にありて弘教する 観心本尊得意抄を著す 減劫御書を著し、大進阿闍梨をして故高橋入道の墓に代参せしむ。 阿仏房身延に参詣 上行菩薩結要付属口伝を著す 日法 日興を介して聖人の室に入る 最蓮房 流罪赦免

4月15日蒙古の使者 杜世忠ら長門室津に至る、幕府これを鎌倉に召す 4月三徒 竜象の坊を焼く 9月7日 幕府 蒙古使者の杜世忠らを竜の口に斬る、朝廷•幕府の公事を減じ民力を休養して兵備を厳かにする 11月 元こうにより北条実政を鎮西に遣わす 12月26日真言僧 強仁 勘状を聖人に呈す 


1276 健治2
55

清澄寺大衆中を著す 富木常忍母 卒 清澄寺の道善房 寂 3月三位房 日向ら安房に在り 印旛房日永 改衣 日目 伊豆走湯山円蔵坊において日興より得度 寂日房日華 入門 報恩抄を著す 日向らをして報恩抄を道善房の墓前に読ましむ 宗論準備のため日向等をして経論を諸寺に探訪せしむ。日目 身延山に詣で常随給仕す 三位房を使いとし書を松野六郎左衛門に報ず 竜泉寺院主代行智 遂に下野房日秀•越後房日弁•少輔房日禅•三河房頼円に称名念仏の誓状を求める 頼円これに応じ三師頻出せらる、日秀•日弁は寺中において弘教す

山徒放棄 北条実時卒53歳 


1277 健治3
56

日目 身延において五戒口決伝授を書写す 三位房を富士加島につかわす 教行証御書を著す 富木常忍 不審状を呈す 四信五品抄(末代法華行者位並用心事)を著す 三位房 鎌倉桑が谷にて竜象房と問答す 四条金吾 江馬入道より勘気を蒙る 四条金吾に代わりて頼基陳状をを著す 下山御消息を著す 崇峻天皇御書を著す 兵衛志殿御書を著す 示病(中務左衛門尉殿御返事) 身延の草庵を修理す

十二社に敵国降伏を祈る 幕府 六波羅政務の条規を議定す 疫病流行 


1278 弘安1
57

就註法華経口伝 御義口伝 成る 駿河岩本実相寺衆•四十九院衆 謗言怨嫉をなす 四条金吾勘気を解かる 熱原神四郎•弥五郎•弥六郎 入信 三沢抄を著す 始聞仏乗義を著す 門弟に法華経の講を始める 公場対決の使者並びに書状到来す 日興•日持等 四十九院申状を幕府に上げる 佐渡阿仏房日得 身延に三度参詣 本尊を日頂に授与 本尊問答抄を著す 法華初心成仏抄を顕す

山徒 円城寺長吏隆弁の鹿谷坊を灼く 興福寺 観音像を造り疫病の祈願を修す 二十二社司を召して疫病の祈願を修す 建長寺道隆寂66歳 二条内裏焼失 時宗 宋に書を送り碩徳の僧を招聘す 京都建仁寺焼失 


1279 弘安2
58

興津時業 日興書写の法華経一部を請く 本尊を日目に授与 阿仏房日得卒91歳 本尊を日向に授与 法華行人四郎男 駿河三日市場浅間神社分社に法敵のために傷害さる 三位房日行寂 出家功徳御書を洗わす藤九郎守綱 父阿仏房日得の遺骨を身延に葬る 弥四郎男 法敵に首を斬られる 異体同心事を著す 大進房等落馬悶死 駿河熱原の信士神四郎等20人 竜泉寺行智等に讒言されて鎌倉に送られる 熱源法難 10月12日 本門戒壇の大御本尊を造立す 10月12日 和泉公日法 一体三寸の造り初めの御影を造立す、聖人印可 10月15日 下野房日秀•越後房日弁 竜泉寺申状を幕府に上げる 熱源神四郎•弥五郎•弥六郎 鎌倉に刑死す、他の17人は赦免 日興等 鎌倉より聖人に法難の状を急報す 三世諸仏総勘文教相廃立を顕す 下野房日秀•越後房日弁を富木常忍のもとへ向かわしむ 日興に上行所伝三大秘法口決を相伝する 日興に文永11年12月の本尊(万年救護本尊)を賜う

山徒 織田荘の事を訴え、神輿を奉じて入京す 岩清水八幡神人神輿を奉じて入京す 6月宋僧祖元 北条時宗の請いにより来朝 幕府 元使を博多に斬る 時宗 祖元を建長寺住持とする 元 南宋を滅ぼす 


1280 弘安3
59

1月日興に具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)を相伝する 2月日興 遠江の新池家に在り 3月【師資伝授本尊】•【臨滅度時本尊】を顕わす 本尊を民部日向に授与 諫暁八万抄を著す

諸寺に勅して異国降伏を祈らしむ 大和国長谷寺 焼失 山徒 円城寺北院を焼く 鎌倉 八幡宝殿 焼く 幕府 鎮西守護•御家人らを戒め同心協力して外寇に備えさせる 


1281 弘安4
60

十字御書を著す 八幡宮造営事を著す 曽谷二郎入道殿御報を著す 光日上人御返事を著す 上野尼御前御返事を著す 身延山久遠寺 十間四面の大坊成る 地引御書を著す 日興 園城寺申状を代奏する(初度の天奏

4月28日 鎌倉大風 5月21日 蒙古来襲【弘安の役】 6月6日 元•高麗の軍船 志賀島等を襲う 6月20日 宸筆宜命を山陵八所に献じ異国降伏を祈らしむ 7月1日 蒙古船 大風に遭い難破大敗す 7月2日 竜造寺季時 敵軍と壱岐に戦う 興福寺僧徒入らく嗷訴す 


1282 弘安5 北条貞時 61

園城寺御下文を賜る 三大秘法稟承事を著す 首題について奥義口伝等日興に相伝す 9月 日興を唯授一人本門弘通の大導師と定め日蓮一期弘法付属書(身延相承書)を賜う 9月8日 身延出山 9月18日 池上着 日目に命じて、伊勢法印を論破せしむ 9月25日 池上に立正安国論を講ず 10月8日 日興に産湯相承を相伝す 10月10日 日興に御本尊七箇相承•教化弘教七箇口決大事を相伝す 10月11日 日興に法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)を賜う 10月13日 日興を身延山久遠寺の別当と定め身延山付属書(池上相承書)を賜う 辰の刻 池上宗仲の館にて御入滅 10月14日 戌の刻入棺、子の刻葬送 10月16日 日興 宗祖御遷化記録を記す 10月21日 日興遺骨を奉じ池上を発す、夜相模飯田宿所 10月22日 湯本宿所 10月23日 車返宿所 10月24日 上野南条時光館宿所 10月25日 身延に帰山 12月11日 波木井実長 書を日興に奉る(西山文書) 日興 安国論問答を著す

12月8日 北条時宗 鎌倉に円覚寺を創す 12月19日 興福寺僧徒の訴えによりて権中納言久我具房•按察使源資平を配流す 


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日蓮仏法の現代展開  

末法の法華経こそ日本国救済の法

 日蓮聖人は為政者北条時頼に法華経の行者日蓮を用いない謗法があれば【自界叛逆難】と【他国しんぴつ難】が起こると1260年立正安国論(第一回国家諫暁)をもって予言した。それに対して幕府は「伊豆流罪」の刑に処した。又、平の左衛門尉頼綱に書(一昨日御書)を送り第二回国家諫暁をして「竜口法難」の頸切りの座に遭うも諸天善神の加護で難を逃れて1271年「佐渡流罪」となった。幕府も要人も聖人の予言をせせら笑っていたが、予言どおりの同士討ちの戦が鎌倉•京都に起こり【自界叛逆難】、元(西戎大蒙古国)よりの牒状が来たら驚いて赦免状を出して聖人を鎌倉に呼んだ。聖人は1274年(文永11年)4月8日、平の左衛門尉頼綱に見参し第三回国家諫暁をする。その際、頼綱が「大蒙古国はいつ襲来するのか?」と聞いた。聖人は「今年中には必ず来る」と答えた。その予言は的中し、1274年10月に元軍は壱岐対馬の住人を虐殺し博多湾に襲来した【他国しんぴつ難】。日本史には10月20日元軍、筑前に上陸する。夜大風おこり元船沈没する(文永の役)とある。また、1281年(弘安4年)6月16日、2度目の蒙古襲来があった。弘安の役である。このときの東征軍は合計14万の大軍であった。日本史には7月1日大風雨により元•高麗の兵船、多数漂没する(弘安の役)とある。

一度ならず二度も侵略した元の大軍を全滅させた大風(雨)の事を後世の人は神風と呼んだ。

 日蓮聖人は、三度諌めても法華経の行者の言を用いない北条幕府と民衆に対し、後世の日本国は必ず【他国しんぴつ難】に遭って滅亡すると予言した。

 時は664年下って昭和20年、大東亜にはじまる太平洋戦争の敗戦で日本国は史上初めて滅亡した。予言が的中したのである。戦勝国アメリカの日本政治支配は長らく続いた。軍事的にも共産圏の防波堤として日本は利用されてきたのである。戦後66年たった今だに自由民主党(自民党)の政治家の中には米国依存の政治姿勢をくずさない者も多くいる始末だ。国民は長らく対米追従の自民党右翼政治に悩まされてきた。そんな自民党に安易に手を貸して与党と成ったのは【等距離完全中立】だったはずの公明党であった。国民にそっぽを向かれた公明党の立場はもう無い。現在政権与党と成っているのは民主党であるが、これはまた親北朝鮮•親韓国•親中国の左翼政党である。真実の日本中立政治は未だどこにも無い。日本国は、人種的にも、政治的にも、経済的にも、正しく自立すべきである。

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東日本大震災の捉え方  

 今回のM9,0の未曾有の大地震と津波と原発事故による東日本大震災は、自民•民主の為政者が内道を説いた日蓮仏法を用いず、外道を説いた外典と、念仏•真言•禅宗•律宗などの謗法の思想によって、利権のために自然を破壊したので、法華守護の諸天善神が怒りをなして起こした災害である。地球生命の自然を破壊する悪人共に与えた仏罰である。
 日本国は仏教なかんづく法華経有縁の国なのである。その国に外典の外道をとりこんだのは誰か。言わずもがな明治政府の要人である。廃仏毀釈して外道を入れた。その結果、生命を説いた仏教思想は廃れ、西欧並みの物理思想が主流となった。小学から大学まで仏教は微塵も教えない。だから大卒の者でもオーム真理教のような猿でも分かる邪宗邪経にころっと騙される。物理科学には博学でも仏教の生命思想には無智なのである。
 日本を動かしている政治家、官僚、司法者、学者、財界の者共はほとんど皆物理頭脳の持ち主である。だから地震の原因や原発事故に関しても物理科学的な考察しかできない。地球生命の心がわからないのだ。地球生命と人間生命の関連性も解せないのだ。生命の不可思議法は物理化学者の思いもよらない甚遠な法なのである。

日蓮聖人の御書より

問うて云わく正嘉(1257年)の大地震、文永(1264年)の大彗星はいかなる事によって出来せるや

今の大地震•大長星は国王(民衆)•日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふど(方人)せらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。(撰時抄)

去る正嘉元年(1257年)八月二十三日戊亥(21時)の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘えたるに念仏宗と禅宗とを御帰依有るが故に日本守護の諸天善神瞋にを作して起こす所の難なり、若し此れを退治無くんば他国の為に此の国を破らる可きの由.....中略(宿屋入道への御状)


折伏と摂受は宗教者の使命  

折伏

095.JPG 折伏は対話して相手の間違った思想•宗教観を破折し屈伏させる事である。折伏は、思想•信教が自由であるかぎり、邪教の分裂増殖を防ぎ正してゆくために、およそ宗教と名のつくかぎり実践しなければならない。
 しかるに邪宗教は保身のために折伏をしない。理事において正宗に劣ると知っているからだ。念仏•真言•禅•律•その他の邪宗教は【信教の自由】を隠れ蓑にして生き延びている。邪智謗法と悪人に満ちた末法の今時では邪宗折伏の実践が不可欠である。


摂受

002.JPG 摂受は相手の思想•宗教観が間違っていると知っても即座に対決せず、寛大な慈悲心から理路整然と穏やかに説得する。もしくは相手の邪を容認しつつも我が身の三因仏性の振舞によって相手を屈伏させる事である。
 摂受のみで改宗させる事ができるのは善人のみである。邪智謗法、悪人に満ちた末法今時ではこの摂受で改心させる事は難しい。
折伏摂受は時によるべし。

いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の敵をだにも責めざれば得道成仏あり難し。(南条兵衛七郎殿御返事)

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如説修行の行者  

質問者

 如説修行の行者というのは、どのように信ずることを言うのですか?

回答者

 現在、日本国中の人々は一同に如説修行の人とは、諸乗一仏乗と開き会得すれば、何れの法も皆法華経であって勝劣深浅は無いと思っています。,念仏を唱えても、真言を持っても、禅を修行しても、総じて一切の諸経及び仏菩薩の御名を持って唱えても、皆法華経であると信じるのが如説修行の人と言っています。
 その解釈は錯覚です。諸乗一仏乗の意味は、方便権教の諸乗はすべて法華経の一仏乗の中にある。だから「方便権教の諸乗を捨離し法華経の一教のみを信じなさい」という事です。
所詮、仏法を修行するという事は、人の言を用いてはならないのであって、只ひたすら仏の金言をまもるべきです。
 仏教の本師•釈迦如来は、初成道の始めから法華経を説こうと思っていたが衆生の機根が未熟であったので、まず権教の方便(無実)の教えを四十余年間説いた後に真実の法華経を説いたのです。
そして、機根を調えてから、法華経の序分の無量義経になって権教方便と真実法華経を分けたのです。いわゆる「以方便力•四十余年•未顕真実」の経文です。

此の御本尊全く余所(よそ)に求めることなかれ。ただ我等衆生の法華経をた持ちて南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団におはしますなり。これを九識心王真如の都とは申すなり。(日女御前御返事)

宗教の目的は生命の覚智  

釈迦仏の本義は円教(法華経)

005.JPG 生命を正しく説いたのは過去にはインドの釈尊、中国の天台、日本の伝教(最澄)である。末法今時では日本の日蓮聖人である。之を三国四師という。
 すべての宗教の教祖が生命を説いている。とはいっても、生命の片端片端を説いているのである。偏頗な教えである。偏頗な教えを邪法という。法華経は円教である。生命の実相を順円一実に説いた無上の教えである。円教を正法という。地球生命•人間生命の実相は正法の法華経のみに明かされている。
 念仏(浄土宗)の曇鸞(中国)•源空(法然•日本)•親鸞(日本)、真言宗の善無畏三蔵(インドー中国)、空海(弘法•東寺密教•日本)、禅の達磨(中国)、律宗の慧光(中国)、鑑真(中国ー日本)、良寛(日本)等等の人師たちは、釈迦仏の説法のうち30成道から72までの42年間に説いた教えを依経としている。釈迦は72の時、無量義経で「無量義は一法より生ず」として、80入滅までの8年間にわたって正法の法華経を説いた。「42年未見真実」として、法華経を説く前の42年の教え(爾前教)を方便権教(法華経に誘因する為の方便の教え)だから捨てよと教えている。この説教に背いて方便権教のウソの教えで立宗し、釈迦仏の本義である正法の義を踏みにじっているから、念仏、真言、禅、律等は邪教である。法華経の正義を隠し、ウソの教えで民衆を騙しているので破仏破国の因縁を説いているわけである。
 また、仏教界の寺院は伽藍を荘厳し、冠婚葬祭業を本分として、僧侶は家族を養うことを生業としている。本来僧侶は妻帯せず、死身弘法(命がけで正法を弘める)の仏道修行によって成仏し、民衆を救うのが使命である。
 日蓮聖人は立宗宣言以来、一人で邪悪な国家権力と戦った。小さな草庵に住み鎌倉幕府をはじめ、邪教に染まる日本国民を死身弘法をもって折伏したのである。

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日蓮直宗

 日蓮聖人の仏法を奉じて、不幸な宿命を幸福な宿命に転換するための、正しい信心を志向しています。

はじめに

このホームページは、毎日少しずつ書き加え、誤謬を訂正してまいります。いつまでも未完成であり、いつなんどき編集で変更を加えるかも知れません。それは筆者の無明の致すところ、お許し願いたいと存じます。