生命 of Masaki Toshio New Site

唯心論でも唯物論でもない生命論を展開します。

信仰とカルトについて教えてください。

 信仰とは我が生命がよりどころとして信じる教えを仰ぐことです。自分の生命への覚りが完璧なら、わざわざ他人が説いた教えを信仰の対象にする必要はありません。

 しかし、生まれながらにして森羅万象を正しく会得し、正しい生き方のできる人はいないと思います。先人の残した叡智の教えを仰ぎ信じて、自分をグレードアップしなくてはなりません。

 そのためには、自力で万巻の書を読み修行をして、宇宙世界の森羅万象を働かせている生命の有様を会得する必要があります。

 昔は、一生をとおして万巻の書を読み修行できる人は仏と僧侶のごくわずかな人々しかいませんでした。一般の民衆は衣食住の生活に追われていて、難信難解の釈尊・天台・伝教・日蓮の法灯の伝統を理解することや修行実践のできる人はいませんでした。

 なので生命を悟った仏と僧侶が、貧者の家に托鉢して教を説いたり、集会を催して教を説いたりしました。

 その集会というのは主催種の自意や請われての他意でおこなわれました。最高の教を会得したら誰かに教えたくなるものです。また、無知な民衆は仏の叡智を知ることを熱望します。そこで必然的に集会が生まれました。

 仏や僧侶といえど霞を食って生きて行けません。一椀のご飯のために教を説いたのです。また、集会ではお布施といって、自由な意志でのご供養が行なわれました。けっして促されたり寄付を強要されたり、募金活動などはいっさいありませんでした。それは仏や僧侶が、お金儲けの目的ではなく、真実の宗教を説いてすべての民衆を救うという、崇高な使命に生きていたからに他なりません。

 ところが、仏が涅槃(他界)すると、僧侶たちによるたくさんの教団ができて、仏説を「我はこう聞いた」という我見が多くなり、仏の真意をさしおいて我見の宗教を修行中の僧侶の分際で説いたから、有象無象のたくさんの仏教が生まれました。

 そして、元来一つの仏説の真意を伝えて全民衆を救うという根本精神を忘れ、教団を維持するための集金におわれ、何かとお布施を促したり、寄付を強要したりするようになりました。ひどい所では、税金を免除された教団でありながら、新聞社・美術館・出版社、文化団体等の外郭団体を組織して、その営業収入の何割かを儲けています。
会員は手弁当で布教活動をしているのですから、それは布教のためには全く必要のないお金です。、いったいその集めた何千億円もの大金は何に使っているのでしょう。

 本来の布教は個人の権利としてあるものです。教団としての団圧として、徒党を組んで行なう性質のものではありません。従って教団に大金を集める必要はまったくないわけです。

 昔の僧侶は独身で厳しい仏道修行と実生活の指導者としての教育・布教が職業でした。ですから僧侶に正しい仏法の知恵を教わり布教をお願いするので金品のご供養をして僧侶の生活を支えたのです。しかし、現在の僧侶は妻帯して堕落し、家族を養うために、世俗の生活のために僧職を選び、仏教の指導者として身を殺して仏法を広めるなどという視点は微塵もありません。従って供養を受ける資格はないというのが実情です。

 また、現在では何も出家して僧侶になって厳しい仏道修行などしなくても、個人的な修行で仏道を極める情報が氾濫しているので、後は知識・智慧と行動の修行実践あるのみとなっています。よいとわかっていてもやらなくては意味がありません。

 何はともあれ、信仰とは集団でカルト(宗教的崇拝)としての中心者の指導を仰ぐ必要はまったくありません。

 個人の意志で法を求め教を求めて成仏(生命を覚る者となること)ができるのが、新世紀の仏道修行となっています。

生命とは何ですか?

 命とは一言でいえば魂のことで我とも一念ともいいます。この魂・我・一念の心(神)の摂理が肉体(物質)を動かして活動している状態が生命です。

死後も生命は存在するのですか?

 なんと表現したらいいのでしょうか。死後は生命としての活動はありません。というか、それは外道の二元論(唯物論・唯心論)の生死観でありまして生と死を分けて考えております。

 唯物論は死んだら終わりとか。一度きりの人生とか。これらは事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念からの考え方です。そして非物質的な存在(心)や心理現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考えます。これは一面の真理ですが正しい生命観ではありません。

 唯心論は死後は天国にゆけるとか。死後は地獄に堕ちるとか。これらは心、またその働きとしての神こそが至上の要因であるとする哲学の考え方です。心や神の働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質を持っているとして、物質的存在がその存在を認められのは意識によるものであるとします。したがって意識が存在を決定づけるとするわけですが、これは一面の真理ですが正しい生命観ではありません。

 ところが特に戦後の外道教育で日本人の大半がこの二極(物・神)を分ける二元論(唯物論・唯心論)の誤った生命観に染まっております。そしてそれが凶悪犯罪の引き金ともなっています。

 正しい生命観は内道の仏教にあります。あまたの仏教の中でも、なかんずく末法現在の法華経である日蓮仏法のなかに余すところなく明かされております。
 日蓮仏法の正しい生命観では物心一如でして生と死を分けて考えておりません。生死は二にして不二として、原因と結果の法則を内在した我の一念(魂)が生と死をくりかえしつつ無限に続くと説いています。

 ですから、死んだら終わりではないのです。また、次の生はふりだしからではないのです。善因も悪因も今生でつくったものはすべて来生にひきつぐのです。ちょうど、囲碁で封印しても止めても、次回は同じ布石から始めるように、劣勢は劣勢のまま、優勢は優勢のままで始めまるのです。

 我の一念という魂泊には死後も生前の因果律がありのままに刻まれていています。悪因は悪果となり善因は善果となって来生には今生と同じ生命の因果律を引き継いで生まれてくるのです。