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唯心論でも唯物論でもない生命論を展開します。

筋肉痛と痛風と

2010-07-26

筋肉痛と痛風と

 3月28日正午からの保田妙本寺第51世日誠上人普山法要に参加のため、自律神経測定器等が入った35kgくらいの商売道具を担ぎ、前日27日の朝9時に発ち、11時に津田沼のOさんを治療(カイロプラクティック)して、鈍行列車で保田駅まで行き、駅前通りで妹夫妻の経営する蕎麦屋で4人を治療してから妙本寺へ行きました。

 夜の勤行を済ますと大部屋に6人の雑魚寝です。春とは言え、まだ寒さが残っているので電気ごたつを囲んで11時頃までは雑談をしていました。もう既にイビキをかいて寝ている者も二人います。明朝6時の勤行会に間に合わせなければと11時半頃布団の中に入りましたが、まだ3人が残って雑談していました。そのうちの一人のBさんが吸っているタバコの煙が部屋にこもり、身体に悪いので「ごほん、ごほん」と大げさに咳をして遠慮してもらおうとしましたが、本人は一向に気づかず平気でプカプカとやっています。仕方がないので障子を開けて廊下の空気を入れました。が、それでも咽せるので「すみませんがタバコは遠慮してもらえませんか」と注意しました。すると「ああ、それで障子を開けたの」と言ってタバコを吸うのを止めてくれましたが、その腹いせに「正木さん、御本尊に足を向けて寝ては行けませんよ」と逆注をしてきました。それは確かに私が足を向けている西の方百メートル以上離れたところには宝蔵があります。が、御本尊は箱入りできちっと格納されているわけで御本尊がかかっているわけではありません。言いがかりと思いましたが足の向きを南に変えて注文に応えました。
夜中の12時を半分回った頃になってやっとみんなが寝静まりましたが、早く寝なければと焦る私は頭が冴えて眠れません。朝3時に客殿へ唱題に行くと一人先客がいました。石垣島から来たFさんでした。1時間あまり唱題しました。
 6時の早朝勤行を終えると朝食は白米ご飯と豚汁とお新香に納豆と魚の煮付けなどでした。私は豚汁の肉を残して魚は食べませんでした。

 10時頃、御供養と持参した絵画の寄進を終えると、いよいよ正午より普山式法要が営まれました。代々の猊下の就任式は初めての経験でした。確かに感動はしましたが形式的で何か物足りなさを覚えたのも事実です。

 午後3時、場所を君津駅前のハミルトンホテルに移して祝賀会が開かれました。ホテルの送迎車に分乗して保田から君津に向かっていると、お寺の車のベンツが追い越して行きました。こんなことを言うと生意気と思われるかも知れませんが、猊下がまだ執事だった頃聞いたことがあります。「なんでベンツなのですか?」と。すると「国産車ではぶつかった時危ない。ベンツは丈夫だから」と答えていました。私は心の中で信心が正しければぶつからないのではと思いました。

 会食会には余興としての沖縄踊りや、いつもながら見事な大阪のYさんの踊りがありました。

 昼のおにぎりを食べずに参加したので腹が減っていましたが玄米菜食の私の食べられものはほとんどありませんでした。ビール、刺身、魚肉調理の品々、ミックスサンドイッチ等々。でも、医者通いと薬の飲用を止めて痛風が出なくなってもう一年一ヶ月たつので、一回くらいは良いだろうと、ビールと刺身とミックスサンドなどを食べてしまいました。
重い商売道具をかついで東京駅についた時、右足に違和感というか軽い痛みを覚えました。そして夜の8時頃帰宅しました。

 翌朝の29日、起きると右足の長指伸筋の外側の立方骨の当たりに軽い痛みがありました。歩くと+1の痛みです。
30日は右足小指から外くるぶしにかけて腫れて痛いけど我慢すれば歩ける+2の痛みでした。
31日には右足の腫れがひどくなり+3の歩けない痛みになりました。

 4月になると、
1日~2日、右足が痛くて立てない+4の痛みになりました。
3日~5日、布団に寝ていて動かさなければ全く痛みは無いのだけれど、足を持ち上げたり倒したりして、どちらかに体重をかけると、耐え難い激痛が走るようになり最悪の+5の痛みになりました。
6日~7日、右足の痛みが少しやわらいで+4の立てない痛みに変わり、手足に+3の掻痒感(かゆみ)が発生しました。
8日~10日、立てたけど歩けない+3の痛みになり、かゆみが+5のマックスとなり手足から全身に広がりました。
11日~16日、何とか歩ける+2の痛みと、+2のかゆみになりました。
17日、朝方に右足の足背部(長指伸筋)にスパズム(筋肉けいれん)が起き、痛みは小指側にありました。この筋肉痛とスパズムは長年飲んでいた消炎鎮痛剤(ボルタレン・ロキソニン)の副作用が出たものと思われます。また、左足の親指の付け根(第1指節関節)の痛みの痛風発作の徴候が現れて浮腫(はれ)も増加しました。かゆみは+2程度。
18日~21日、+4の立てない痛み。左足の腫れと痛みがひどくなり、右足のスパズムが時々起きました。
22日~23日、+2の痛み。左右の足の痛みは引くが腫れは同じ。右の膝蓋骨の下、けい骨そ面が痛くなる。左手の腫れと痛みはだいふ良くなりました。手足のかゆみは無くなって、へその周りの+3のかゆみがでました。
24日~25日、+3~+4の痛み。右足親指の付け根に疼痛あり。左手の親指付け根にも疼痛あり。へそのかゆみに加えてお尻に+3のかゆみが出ました。
26日~30日、+3のやっと歩けるほどの痛みでした。

 5月になると
1日~2日、+3の歩けない痛みになりました。
3日~6日、手足の痛みは治ったものの、急に左膝の上の内側のひどい筋肉痛が起きました。+5の動けない痛みでした。これは昨年2月26日より医者通いと薬を断ってから服用せずにいましたが、29歳の初発作より足掛け43年間にわたり長い間服用して骨髄に蓄積していた消炎鎮痛薬(ボルタレン・ロキソニン・二フラン等)の副作用が、体質改善の好転反応として出たものと解されます。
7日~16日、足は動かせるけれど、+4の立てないほどの痛みがありました。
17日~22日、+3の歩けない痛みになりました。そして症状としては、左足の膝上の少し外側の筋肉が硬結したり、右足の親指関節が腫れて痛くなったり、右手の小指の関節が腫れて痛くなったりしました。また右足の、薬のために神経がズタズタになって肉離れをおこし分断されていた筋肉が少しづつ修復されている感じがしました。
23日、朝4時頃、へそがひどくかゆいので掻いていたら、汗臭いにおいのする黒い直径5mmくらいのへそクソがとれました。
24日~25日、+2の歩ける痛み。右足のスパズムあり。左足の大腿四頭筋の膝蓋骨上部に動かすとスキーンという疼痛がありました。
26日~28日、足の痛みが増して+4の立てない痛みになりました。
29日~31日、痛みがなおも増加して+5で動けなくなりました。

 6月になると
1日~10日、+3の歩けない痛みとなりました。
11日~16日、+2の歩ける痛みとなりました。
17日~30日、+1の軽い痛みとなりました。へそのかゆみはほとんど治りましたが、お尻のかゆみがひどくなってきました。

 7月になると
1日~21日、大きく曲げると足に+1の軽い筋肉痛があります。そして足の腫れはわずかに残り、ちょっとしびれのような感覚があります。また、肛門の周りのかゆみが+5のマックスの状態になっています。掻きだすと止められなくなるので、がまんして絶対に掻かずにいると、不思議とかゆみを感じません。

 アメリカのカイロプラクティック医学の博士、AOT創始者のロイ・スウェット先生は言いました。「いったん傷ついた神経は癒えるまでに四ヶ月かかる」と。まったくその通りで3月29日に出た私の筋肉痛は7月29日でちょうど4ヶ月となります。7月末日までには全快することでしょう。

 今回の4ヶ月に及ぶ闘病生活を振り返って総括してみると、あの昭和60年にParisで起きた痛風でフランスの病院にかかって投薬を受けても6ヶ月以上寝たり起きたりで結局治らなかったのと比べると副作用の痛みは大きかったものの非常に良い結果となりました。

 昨年9月よりナチュラル・ハーモニーの自然栽培米と野菜の宅配を受けて厳格な正食を実行し体質改善を計って来て7ヶ月経ちました。今回はそのための副作用が出たのだと思います。

 先ず骨髄の中にしみ込んでいたボルタレンやロキソニンなどの消炎鎮痛薬が血中にでできたために手足の神経が分断され手足に1次的な筋肉痛が起きたのだと思います。そして体液循環が悪化したから手足の先の方に浮腫(むくみ)が起きました。すると浮腫の中に溜まった尿酸によって2次的に痛風発作が起きたという過程が今回の激痛の原因であったと考えます。

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チャンネル桜

2010-07-26

チャンネル桜

 チャンネル桜というネットテレビ番組があります。草莽崛起の表題をかかげて一見中道の正論を述べているように見えるますがその根底は右翼であり、よく聞きていると左翼の攻撃ばかりをしています。そして憲法改正と自衛隊の国軍化を喧伝して国民の右翼化をはかり、ひいては核武装の抑止力論を展開しているのです。

 私の思想は右翼でも左翼でもありません。飛行機にたとえれば胴体の部分の中道ですから、チャンネル桜の左翼の誤り攻撃には同調できても、その対極の右翼思想には同調できません。

 彼らは撃ったら撃ち返すという相対論者です。専守防衛の域を超えて、尖閣諸島で中国軍と・竹島で韓国軍と、北方領土問題ではロシア軍と衝突し、どっちが先に仕掛けたかの食い違いによっては軽く戦争に突入することは日を見るより明らかです。脅威の軍拡競争は決して戦争の抑止力にはならないと私は考えています。

 ではどうして、武器も軍隊も持たずに増々巨大化する中国軍や、韓国・北朝鮮・ロシア軍などの軍事力の脅威に対処するのかというと、鎌倉時代、幕府の要請によって、日蓮が法華経で神に祈ったら神風(台風)が吹いて、一夜にして大蒙古国軍の10万の連合艦隊が海の藻くずとなったように、末法の法華経(日蓮仏法)の信仰で、天地生命の神軍を味方につければよいと思います。天地生命の神軍に勝てる軍隊は古今東西の世界に一つもないし、それが一番の天然の防衛力であると思っています。

 首相もしくは田母神氏などの指導者が靖国(神道)という一宗教を国家絡みで参拝するというのは、これは邪悪な政教一致の粋たるもだと思います。そうして、天皇の復権と戦前の日本帝国憲法の復活をもくろむ危険な思想だと言えるでしようね。

 大体、天皇を中心(現人神)とした当時軍部の邪悪な思想で、強制的に全国民に神道思想を押しつけた政教一致が太平洋戦争の敗戦の原因であるのに、神風が吹いて日本は勝つと言っても神風は吹かず日本は負けたくせに、昭和天皇自ら現人神否定宣言をしたにもかかわらず、省も懲りもなく、また平成天皇を担ぎだして神道中心の国体を模索するなどとは時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ません。

 英霊をまつる靖国といいますが、英霊というのは邪悪な"大東亜共栄圏思想"で国民を戦争に追いやり、日本を焦土と化した張本人の東條英機や戦争指導者たちでは決してありません。

 英霊というのは、天皇(実は軍部大本営)の命令により、不本意にも赤紙で戦争にかり出され戦地で尊い命を落とした全ての軍人たちの御霊のことです。なかんずく将来のある学徒が敗戦色濃い戦争末期に零戦に乗せられて、神風特攻隊として自爆攻撃の犠牲を強いられた死霊こそ英霊であると思います。もっといえば、日本中で必死に戦った人たちや、広島・長崎の原爆の被害者たちも英霊と言えると思いますが、それらの人たちの英霊は靖国にはまつられていません。首相がもし英霊を弔うためと言うならば靖国ではなく、それらの英霊の墓のある全国の寺社仏閣の全てに詣でなくてはなりません。

 東京裁判での戦争犯罪人という意味ではなく、日本国民が裁いたとしても、東條をはじめ大東亜戦争・太平洋戦争を推進した指導者たちは、まぎれもなく戦争犯罪人でありましよう。そんな戦争犯罪人がまつられている靖国神社に、一国の指導者が公的参拝をすべきではありません。これは、中国・韓国・北朝鮮が騒ぐからという外的な圧力からではなく、この事は、あの悲惨な戦争を戦争指導者たちに強いられて出征し戦死した全ての被害者たちの総意ではないでないでしようか。

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信仰

2010-07-26

信仰

私の生家の菩提寺は南房総市にある浄土真宗(親鸞)のお寺です。
少年時代の我が家は貧しくて農業もうまくいかず父は行商でもやろうかといつも言っていました。
私はなんで家だけが貧乏なのだろうかと不思議の思っていました。人気があった力道山とルーテーズが戦ったプロレスの試合もテレビがないので隣家まで行って見せてもらいました。正木家は4軒ありますが、他の3軒は裕福に見え私の家だけが極端に貧乏でした。
病苦のため19歳で自殺を企てましたが果たせず、天の啓示をうけて病苦と貧乏から脱出するため、また画家の夢を果たすために23歳のとき上京しました。
東京芸術大学の受験に失敗し、アルバイトをしながら絵画研究所で勉強していましたが、病気ばかりしていてアルバイトが長続きせず方々を点々としていました。そんなとき創価学会の折伏を受けて入信しました。
当時の創価学会は日蓮正宗創価学会といいましたが、なんと燐家の正木家3軒は当時はまだ日蓮正宗創価学会のお寺であった保田妙本寺の檀家だったのです。
「なぜ我が家だけが念仏なのか」と母に聞いたことがあります。何でも4代前の先代が念仏に改宗したらしいのです。

思い出したのですが小学校6年生のとき、夜の8時ころ本家のおばあさん(私の家から嫁に行った人)が父母を折伏(今で思うと)に来ていました。
「頭は妙、咽は法、胸は蓮、腹は華、足は経だから妙法蓮華経は5体の生命を表す、この5体の生命に南無(帰命)すると願いがすべて叶う」というようなことを言っていたようです。もちろん当時の私には理解不可能でした。でも「なむみょうほうれんげきょう」というと願いがかなうという意味だけは何となく頭に残っていました。

本家はその後おばあさんが亡くなってから嫁さんが立正佼成会に入ってしまって私が折伏に行ったりもしました。その時、なんで妙本寺の僧侶は、主が檀家総代まで務めるている本家の嫁さんを折伏に来ないのかと不思議に思いました。嫁さんの立正佼成会信仰が高まるにつれ、本家の5人姉妹は離散して家を継ぐものがいなくなりました。

本家の前が私の家ですが、横の正木家では主が牛小屋の屋根から落ちて死にました。裏の正木家ではおばあさんが胃がんで死にました。それなのに妙本寺の僧侶は何の信心指導もしていません。ただ死者を拝んで成仏を祈るだけなのでしようか。死んでから祈っても遅いし、ただ死者の法要を営むだけの僧侶は要らないと思うのです。

何時だったか妙本寺へ行ったとき、座談で唱題で死者の悪相が成仏の相に変わるという話題で盛り上がっていました。私は「魂の抜け殻の死体はいくら唱題しても成仏させられない」といいました。すると一人が「僧侶の祈りで変えられる」といいました。
私は死んでから僧侶に成仏を祈られるのはまっぴらだと思いました。

両親と4人兄弟のうち一番最初に入信させることができたのは下の妹で昭和41年のことです。彼女は中卒(家が貧乏で高校へ行かせられなかった)で美容師見習いをしていた17才、ヘアーコンテストで3位入賞できたと喜んでいて、初信の功徳はあったのですが、なぜか私を避けるようになり、その内に信心が退転状態になってしまいました。その理由は後でわかりました。信仰嫌いの父の干渉があったのです。後日「兄さんのところへ行ったら親子の縁を切る」と書いた妹宛の父の手紙を見せてもらいました。

昭和40年、私は真っ先に父を折伏しましたが逆鱗に触れ「お前は勘当だ」といわれました。そこで「こっちこそ勘当する」といったら、「親を勘当するとはなにごとか」とあきれ顔で戸惑っていました。

病弱だった私が信仰の功徳で健康を取り戻すと、逆に信仰に反対していた健康だった父が脾臓肥大で平群国保病院で手術(昭和41年)をしてから鋸南町国保病院で輸血を繰り返しました。
父はO型だったので親族の中で輸血できるのはO型の私だけということで、私を嫌っていて見舞っても無言の父に2度血液を提供に行きました。そして信仰を勧めたところ父も信仰する気になり元気になって退院し、私の東十条のアパートへ来て一緒に唱題しました。御受戒の準備を進めていましたが、しかし母の猛反対で父も「母さんが反対しなくなってから」ということになってしまい入信させることができませんでした。
昭和45年3月6日、57才の若さで父は急死してしまいました。平群病院の先生は「5年も持ちこたえたんだから良い方です」と母にいったそうです。しかし、私は父の死は母のせいだと一時は母を恨んだりしました。
私が鋸南町病院に見舞ったとき先生は白血球が非常に減少している(血液がん?)といっていましたが、母に聞くと「最後は肺炎で下血して死んだ」ということで、病名ははっきりしません。

昭和48年、母を信濃町に呼んで柏原ヤス先生の講演を聞かせたり、当時少し無理をして住んでいた筑土八幡のマンションに呼んで折伏をしたりしました。その時は最大の理解を示したものの入信はしませんでした。
そして「おまえが結婚して子供でもできて幸せになったら入信する」と約束しました。どうやら私の信心を見ていて病弱が治ったことは認めたらしいのですが、いつまでも生活が安定しないのが不信の理由のようでした。
そういわれても、私が過去世でさんざん法華経を誹謗したことに原因があるわけで、現在いくら熱心に信仰しても、そう簡単に罪障消滅できるはずもありません。
心の中で「だからこうして母さんに法華経のすばらしさを教えて宿命転換をしようとがんばっているんです」と叫んでいました。そして絵描きになる夢さえなければとっくに生活が安定して母を折伏できているんじゃないだろうかと思いました。
昭和49年、会社を辞めて貧乏覚悟の絵描き修行の旅へと旅立ちました。36才になっていました。

昭和52年、弟が結婚することになりました。私は別居のまま結婚約束で交際していた11才年下の幸江との正式な結婚届け出して式に参列しました。その後同居しようということになり住いをさがしましたが、私は安いアパートを彼女はマンションをとグレードのことで決裂してしまいました。
着物のモデルや女優をしていた彼女とはアルバイトの仕事上で知り合いましたが、不思議な縁で創価学会の信者でした。
いつもは仲が良かったのですが、私の縁覚根性が災いして破滅しました。
夜中の1時~2時に彼女から電話がかかって来るのです。私はいつも夜中の3時までは絵を描くことに熱中していたので、それをうるさく感じてつい怒って冷淡な態度をとつてしまいました。
彼女から「冷たくされたから」と別れを切り出されたとき、謝りましたが許してもらえませんでした。

昭和53年、信濃町に住んで糞さらいのアルバイトをしていたとき、弟が「古い家の方を兄さんに返すから田舎に帰って来ないか」というので田舎暮らしを決意しました。
田舎に帰ったら結婚相手は見つからないだろうと思い、東京都結婚相談所に「持ち家あり」と書いて登録しておいたところ、申し込みがあったので面会すると同じく創価学会員でした。交際するとトントン拍子に話が進んで知り合って1週間で恵子と結婚しました。
さて田舎で何で生計を立てるかと思案の末、自然食品店出すことにして「千葉ナチュラル」津田沼店で6ヶ月店長として研修してからかえりました。その時妻の腹には子供が宿つていました。
古い方の実家で母と同居して3ヶ月過ぎるうち、上の妹が「兄さんばかりが実家の土地を返してもらって不公平だ。田畑すべてを4人兄弟で公平に分けるべきだ」といいました。
昭和38年頃、父が上京し「弟が農業を継ぐのでお前の名義の田畑を変えたい」というので私は快く印鑑をついていたのですが、その後弟は農業を辞めて水道電気工事店を開いてしまっていました。千数百坪の田畑は他の農家に貸していました。
そんな中で弟は50坪づつ分ける提案をしました。そば屋に嫁に行っている下の妹はそれで同意しました。しかしサラリーマンの妻の上の妹はそれでは同意しません。私は上の妹の意を汲んで100坪づづと提案しました。兄弟といえども皆欲の突っ張り合いで決裂してしまいました。
結局、弟は怒り「土地の名義はすべて母の名義にする。兄さんも出て行け」といいました。
妻は自然食品店が開けるまでと東京の会社に通ってがんばってくれていましたが、それですべてが不意になりました。
母もあれやこれやと子供の産み方を妻にアドバイスしていましたが、ストレスに耐えられなかったのか4恵子は流産してしまいました。

昭和58年、マンション管理人の仕事をしながら絵を描くいていましたが、昭和60年4月に恵子と破局して離婚しました。離婚の原因はいろいろあって定かではありませんが、恵子は流産腹で2度の流産(3ヶ月)と1度の早産(6ヶ月)で不妊手術をしてしまいました。
離婚したら一人では管理人は勤まりません。思案の末、レストラン大阪屋のパリ支店で調理見習いの就職口が見つかったので、フランスで絵の勉強をしようと決めました。

そんなわけで昭和60年5月マロニエの花咲くあこがれのパリへ着きました。
レストラン大阪屋で働いて1ヶ月もしない内に警察の手入れがあり、不法労働の罪でシテ島の警察署に1日拘束されました。専務さんの話では、ここ何年も手入れがなかったので「3ヶ月くらいで職業ビザをとってやるつもりでいた」とのことでした。
それからは旅行ビザですから、フランスを中心にして約1ヶ月位づつスペイン・ポルトガル・イギリス・オランダなどに滞在しての美術館巡りの旅をしました。
昭和61年、スペイン・ポルトガルに取材した油絵小品をパレロワイヤルの東京銀行展示場に並べたら3枚の絵が売れました。
創価学会の欧州副議長だった版画家の長谷川彰一氏と知り合い絵を見てもらいました。
また、個展を開いていた木村忠太氏の知古を得て絵画論を聞きました。
田淵安一氏主催の「NACの会」に入って対話し、絵の生まれるまでの思想体験や夢の活用や魂の歴史など大変興味ある話を聞きました。
そして「Commissions de la Professionnalite」(職業画家証明)と「La Maison des Artists」(芸術家の家)の証明書がもらえて、これからという矢先に6ヶ月間に及ぶひどい痛風発作に見舞われました。
ビクトルユーゴー駅の近くの医師にかかりましたが全く効果がありませんでした。このときばかりはいくら唱題しても治りませんでした、というか激痛に負けて唱題が真剣にできなかったと言った方が正しいと思います。
バリの学会組織では、言葉の不自由がありながらも、会合には良く出席してがんばっていたつもりです。地区部長候補になりましたが、生活が安定しないのと、痛風の病があったために無理でした。
だんだんお金がなくなって心細くなり帰国して痛風を治そうと決意しました。

帰国に際しては必ずギリシャに立ち寄ってみたいと思っていました。それで、ソ連まわりの安いバス旅行と、イタリヤ経由のバス旅行と、二つのコースがあったのですが、イタリヤ経由を選んでアテネに行きました。

昭和62年の正月にパリを出発しました。アテネに着くと2ヶ月くらい滞在して24枚の水彩画を制作しました。
ある日、レストランで知り合ったエジプト人に、日本人女性がいるというクラブがあるから行ってみないかと誘われて、その気になって一緒に飲みに行きました。行ってみると韓国人女性だったので日本語は話せませんでした。
酔ってホテルへ帰ったら全財産の入った財布がなくなっていました。どこかで落としてしまったのか、すられてしまったのかわかりませんでしたが、とにかく無一文になっていました。万事窮すでした。人生でこのときくらい慌てたことはありません。
ホテルの部屋で一日中必死の唱題をして祈りました。すると持っていたコンタックスカメラを売れば良いとの啓示がありました。そこでアクロポリス近くの駅前の路上でみんながやっているようにカメラを敷布の上に置いてみるとすぐに売れました。いくらで売ったのか忘れましたが少し安すぎたようです。
それから、ラゴラの景色を水彩でスケッチしていたら、通りかかったアメリカの紳士が「その絵を売ってくれないか」というので喜んで売りました。確か1万数千ドラクマだったと思います。
安いエジプト航空の切符売り場で、必死で値下げ交渉をしていましたが、どうしても足りません。困っていると後ろの男が話しかけて来ました。そして「日本人だからお金を貸してあげる」といいました。それがアメリカ人の路上演奏家スティーブでした。
彼は2週間後に日本の恋人に会いに行くからといって切符を買っていました。それから1週間、彼の誘いで一緒に行動しました。アクロポリス神殿へ登ってみたり、アテネの東西の市街で飲食したり、映画を見たり、彼の音楽仲間のところへ行って話をしたりして過ごしました。きっとその間、彼は私が信用できる男かどうか見ていたのだと思います。そして信用できると判断したのかスイスフランとドイツマルクで必要経費を貸してくれました。彼は「あと1週間したら大宮のガールフレンドのところにいるから」といって、住所と電話番号を書いてくれました。そして1週間後、大宮駅前の喫茶店でスティーブに会って借りていたお金を返すことができました。
この窮極を、綱渡りの気合いでのりきることができたのは学会活動の功徳ではありません。ひとえに日蓮信仰の必死の唱題の功徳です。

昭和62年3月帰国して、しばらく実家の母のところに滞在していしましたが痛風を治すためにまた上京しました。
南池袋に住んで「すずめのお宿」の店長見習い、「日本情報産業」の営業などに就職しましたが痛風発作で働けなくなりました。そんな時、学会壮年部長で整体師の岡崎さんが「整体を習って自分で治したらどうか」といってくれました。東京女子医大痛風センターに通院して薬付けになっていましたが、一向に治らないのを見かねてのことです。
昭和63年3月、東京整体術センター(東京整体療術学院)へ入学して4ヶ月間勉強して卒業しました。その時講師をしていたのが、後に妻となった悦子でした。
卒業するとすぐ7月から私も講師となつて働くことができました。手技が全身を揉みほぐす手順さえ覚えればよいという簡単なものだったからです。五十嵐学院長の教育方針は全くひどいものでした。60万円の学費さえ払えば10日の講習でも卒業させました。だから認定書欲しさに1ヶ月間の期限付き講習を希望して入学して来た生徒もいたのです。私は未熟だからと2ヶ月くらい講習させていました。その生徒が「約束が違う」と学院長に訴えたらしく私は学院長から「すぐ卒業させてやれ」と叱られました。

平成15年、中学生になつた我が子をつれて帰ったとき母に「産んでくれてありがとう」と本気で言ったら「お前なんか産まなきゃよかった」と言われ、これには閉口しました。そう言わせるほど私の折伏を嫌っていたのです。年に1回くらい行って日蓮仏法のすばらしさを話しただけで私を嫌っていました。ある時、日蓮の御書を読んで聞かせていると、急に席を立って「いま兄さんが来て困っているから助けに来てよ」と弟に電話をかけました(弟は仕事中だったらしく来ませんでした)。

「行解すでに勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる」(種々御振舞御書)とあるように、私を退転させるべく親鸞の念仏心の発散する天魔の邪気が母の心に取り付いているのです。
「親という親の世を捨てて仏になれという親は一人もいない、これは兎に角、和殿方を律•念仏の者たちが(法華経•成仏から)落とそうとして、まず親を勧めて落としているのだ、両火房(良寛房)は百万反の念仏をすすめて発心を塞いで法華経の種を断とう計ると聞いている(趣意)」(兵衛志殿後返事)

涅槃教に「昔無数無量劫より来た常に苦悩を浮く、一々の衆生一劫の中に積む所の骨は王舎城のび富羅山の如く飲む所の乳汁は四海の水の如く身より出す所の血は四海の水より多く父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣して出す所の目涙は四大海より多く、地の草木を尽くして四寸の数取り為し以て父母を数うも亦尽くすこと能わじ」とあります。
これは無量の劫(長遠な時の単位)を生きて来て以来、産んでくれた父母の数は十方世界の大地の草木を四寸(約12cm)に切って推量して数えても足りないほど多いという経文です。
それほど多くの父母には逢ったけれども法華経には遇っていない。父母はつくりやすいけれども法華経には遇いがたい。いま逢いやすい父母に背いても、遇いがたい法華経の友に離れなければ、我が身が仏になるのみならず背いた親をも導いてあげられるということです。

そんなことで母には2~3年会いにも行かず電話もせずに絶交していました。
すると去年の暮れ、母から「あれは面映ゆいから、ああ言ったまでで真意ではなかった」と電話で詫びてきました。
どうやら上の妹が母に会いに行っていて、「産まなきゃよかった」といわれた私の落胆ぶり立腹ぶりを伝えたらしいのです。
そして今年になって母が話しに来いというので夏にでも仏法対話に行くつもりでいます。もう94才ですので何とか亡くなる前に日蓮仏法のすばらしさをわからせてあげたいと念願しています。

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国家権力者

2010-07-26

国家権力者

今の世の中の国家権力者とはいったいだれの事であろうか。今日はこの点についてじっくりと考えてみたい。
主権在民の憲法によれば一応一人一人の国民が国家権力者となる。
しかし。そこにはまだ民主政治が国民の一人一人に徹底されていないもどかしさがある。
国家権力者とは仮に(一時的に)国を動かす力を与えられた者である。短絡的に考えれば国家を動かしている首相であろう。しかし、まてよ? はたしてそうだろうか。違うのだ。首相は民意で選ばれて一時的に権力を行使することを許された者に過ぎない。権能(権力を行使する能力)を国民からゆだねられた代行者でしかない。
そうすると一人一人の国民こそ国家から選挙の時に権能をふるってよいと認定された真の権力者ということになる。この事を本当にわかっている人は少ない。だから政治は政治屋まかせ。選挙権を行使することをあきらめている。そんな人は単に首相が国家権力者だと思っているふしがある。
けれど金がかかる選挙制度も最悪だ。当否の沙汰も金次第では民意が反映されず民主主義が死んでいる。それでは金主主義である。またマスコミで知られた有名人が当選するのもおかしい。それでは名主主義となっている。宗教団体が組織ぐるみで当選させるのも間違いだ。それでは団主主義であろう。正しい民主主義を標榜(advocate)し信教と思想の自由のもとに無名でも清廉潔白な正義の人が当選できるシステムづくりを考えたい。
選挙になると必ず「お願いします!」と赤い声、黄色い声を張り上げて各党の宣伝車が回ってくる。これを聞いて腹を立てているのは私一人だけなのだろうか。お願いされて一票を投じるほど馬鹿ではないと思い腹が立つ。立候補者は政見を全国民に伝えるだけで十分なのだ。
形ばかりの民主主義の世の中で、形ばかりは誰でも立候補できるが、形ばかり立候補したところで意味が無い。主権在民を形ばかりにしている原因が金権•名声•団圧(団体の圧力)に弱い日本国民の性情(性質と心情)である。この性情は徳川300年の封建時代と関係があろう。徳川家康は念仏信仰であった。念仏とは長い者にはまかれろ主義(強い者には逆らわない)である。
天皇が権力をにぎっていた古代。強いものが権力をにぎった幕府の武力による封建時代。西洋かぶれ(西洋に傾いた)の明治政府のえせ(付け焼き刃)の民主主義。大正時代のデモクラシー(democracy)の揺籃(infancy)をへて(elapse)。昭和政府の天皇利用と武力による主権在民(democracy)の破壊、そして企てた経済勢力拡大のための朝鮮•満州国の日本化(これは日本だけの問題ではなく当時の世界の風潮としての覇権主義だった)。それらを指導したのは首相東條英機であった。
東條は大東亜戦争•太平洋戦争後、東京裁判で「A級戦犯」として1948年に死刑になった。夫人と彼の宗教は「どんな悪人でも[南無阿弥陀仏]と唱えれば西方の極楽浄土(paradise)へ往生(go to heaven)できる」という教えの浄土真宗(Jodoshinsyu sect of Buddhism)である。この浄土真宗(親鸞の念仏)とは実に幼稚な教義で因果の理法(原因と結果の生命の法則)をまったく弁えない無責任きわまる邪宗教(悪魔の宗教)である。我が家もこの浄土真宗であったが私がまず日蓮信仰に改宗(covert)して父(故人)と妹二人を日蓮信仰につけたが生家で母と弟がまだ浄土真宗の信仰をしている。私は生家の菩提寺(family temple)の浄土真宗のお寺には三度ほど折伏(convert)に行った。執事(steward)に「檀家(supporter)を説得できない」とまで言わしめたが完全な破折(間違った考え方を正すこと)はできなかった。
1941年、日米戦争を避けようとした近衛文麿首相に対し陸軍大将の要職にあった東條は、あくまで強硬な日米決戦論を唱え近衛内閣を総辞職に追いやり、近衛の終戦工作も木戸幸一ににぎりつぶさせた。
首相と陸軍大臣と参謀総長の三職を兼任し統帥権(天皇にも匹敵する)強化した東條は軍事力で比較すれば負け戦の日米戦争へと導いて行った。無謀な戦争をして数百万人もの日本人を死に追いやった張本人が東条英機である。彼は東京裁判を待つまでもなく死刑は当然であり尚も万死に値する。
東條は東京裁判の「宣誓供述書」の中で大東亜共栄圏(アジアの国々の共存共栄)を構築する目的であったなどと戦争を美化し必然化しようとしているがそれは無理である。1942年、首相だった当時の東條は「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁して「他国を隷属関係におく」ことを宣言し占領地の大東亜圏内の各国の主権の尊重を認めていない。大東亜共栄圏は作り話である。
東条英機のような悪しき国家権力者に率いられた当時の国民ほど哀れなものはない。父は二度戦争に行った。1938年に私が生まれると1939年に中支(中国中部)へ出征(go to the front)して1940年に傷病兵として帰国すると1942年に上の妹を生ませて、また1944年に今度は南支(中国南部)の最前線に出征して行った。しかし運良く命を長らえて1946年に復員して帰ってきた。そして1947年に弟を生ませ1949年に下の妹を生ませた。父の人生は正に強いられた殺戮(slaughter)と種族保存の子作りに生きた特異(unique)なものであった。
ともかく1937年からの日中戦争より1945年8月15日の太平洋戦争終結までの間の戦争犠牲者数は、日本は戦闘員1,740,955人で民間393,000人。中国は戦闘員150万人で民間400万人(推定)。アメリカは戦闘員の364,523人民間は不明。イギリスは戦闘員が86,838人である。朝鮮半島は20万人(推定)。ベトナムは200万人(推定)。インドネシアは200万人(推定)。フィリピンは105万人(推定)。ビルマは5万人(推定)。シンガポールは5000人(推定)。合計で約1340万人の死者である。
この戦争の1340万人の死亡者のすべてとは言わないが大多数が東條英機の日米決戦の英断(decision)にあった事を思うとき、邪宗教の邪気に染まった者に国家権力をゆだねたときの恐ろしさを思い知るのである。
この戦争の真犯人(根本の犯人)は東條英機を動かした浄土真宗の教祖親鸞(Shinran)の邪気と、昭和天皇や国民を操った国家神道(靖国神社)の邪気であることを見抜かなければならない。邪教の浄土真宗を抹殺しなければ、その邪気が入った人間がまた第二の東條英機となって再来することになるであろう。また全国民に国家神道を祈らせても神風(台風)が吹いて敵が殲滅(滅ぶ)するどころか原爆の嵐が吹いて広島•長崎の20万人が一瞬にして死亡するという厳罰を受けたことに懲りて邪道の神道を抹殺しなければまた同じ悲惨をくりかえすことになるだろう。
665年前に日蓮が予言した通りに日本は他国に攻められて滅亡した。この事に鑑みて一切の邪宗教を捨てて万民(all the people)が法華経に目覚めなくてはならないと思う。

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化学

2010-07-26

化学

二十年前、女房が安い小林製薬の栄養剤を飲んでいたので電話で聞きました「なんでそんなに安いのですか?」と。すると「テレビなどの宣伝広告をしないでその分安くしているのです」という答えが返ってきました。「石油化学製品ではありませんか?]と重ねて聞くと薬剤師らしい女性は「詳しいことは分かりません」と曖昧に答えていました。
テレビは魔(名利の鬼)の宣伝と虚像のドラマや馬鹿笑い(現実逃避となりやすい)の番組が多いので我が家にはテレビはありません。普段は見ないのですが、それでも他家へ行ったときなど目に入ってしまいます。「あっ、小林製薬!」という洗脳宣伝をしていました。製品についての何の説明もなく脳裏に刷り込んでしまおうというずるい宣伝方法です。僕がたまに見ただけでも記憶領域を占領されてしまうくらいの洗脳ですから、大金を使って相当頻繁に宣伝しているのではないでしょうか?
化学は自然(完全な仏の生命)を分解して自然の精神を無視してその物質部分だけを利用しようとする悪人の学問なのです。
なぜかと言えば自然そのものでは物々交換くらいであまりお金にならないから、工夫を加えて付加価値をつけて高く売ろうという魂胆です。
石油を分析科学して得た知識で分解し栄養剤に化かして見たところで自然の栄養剤とはなりません。所詮人工化学物質はやがて自然破壊を促進すると思います。
自然(生命)の客観的な物質部分は分析科学できても主観的な精神部分は分析科学できないからどんなに科学が進んでも生命を創造することはできません。
それを仕様としているのが現在の世界を風靡(指導)している外道思想の金権悪徳体制なのであります。
分析科学による化学はやがて人間と自然を破壊してしまいます。
なにもワザワザ石油を化学して産み出した人工の栄養食品を飲まなくても、自然(生命)のままの野草や果物をそのまま食べれば万薬を飲む以上の栄養と効果があるのです。
僕は薬品だけでなく栄養補助食品(サプリメント)も敬遠して一年前から一切取り入れておりません。自然栽培の玄米と野菜と果物がけが食べ物です。そのことによって現在この上ない健康に恵まれるようになりました。

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姿勢

2010-07-26

姿勢

関節ロックさえ外してしまえばどんな動作でも健康法となります。これを僕はカイロヨガと勝手に呼んでおります。
僕は痛風を治すために約22年間にわたって自身の体を矯正してきました。その結果今では何かで体を歪めてもすぐに簡単に矯正してしまいます。ですから体調はいつも良好で心のままに体が自然に動いてしまいます。
そうすると掃除をするのもパソコンに向かうのも行住坐臥が健康運動となります。あえて運動の為の運動をする必要がありません。だから何をするにも楽しくて仕方ありません。こんなに健康になったのは生まれて初めてです。
釈尊のヨガは心と体を一致させる、つまり心のままに体をあらゆる方向に動かすことにありました
。ですから歪みのない或は体の柔らかい内(5歳?)からやっていれば効果てきめんですが、歪みが出て関節ロックがあるようになってからヨガを始めたら(23歳以降?)逆効果でかえって体を壊してしまいます。
ヨガ教室のポーズ(無理なポーズが多い)から入るヨガは間違いです。釈尊ヨガは心身統一して心のままに体が動くようになった結果として無理に思えるような極端なポーズもとれるように体が柔らかくなるのです。
体が歪むと自ずから動くのがおっくうになります。そうすると何か運動の為の運動をしたりヨガの為のヨガをしたくなります。しかし、関節のロックを外して体が歪んでいる原因を無くさないかぎりそれらは無駄骨となります。
よく整体師などが「足を組んではいけない」「悪い姿勢をしてはいけない」などといいますが、それは関節ロックのある人に限定した場合だけです。関節ロックの無い人の場合は足を組もうが悪い姿勢を取ろうが一向に構いません。僕なぞはパソコンに向かって足を組んで前のめりの悪い姿勢をとっておりますが腰痛も起きず至って健康です。
概して作業や運動の過程では悪い姿勢をとることが多いのですが関節ロックがないかぎり歪んでくることもなく健康も維持されることでしょう。
ですから正しいカイロプラクティックで関節ロックを外して歪みの原因を無くしておくことが最も大切です。

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僧侶と信徒

2010-07-26

僧侶と信徒

鎌倉時代の建設的な僧侶(法華経の)は封建制度のもとで不公平な国家権力を正す折伏を実行していました。
日蓮、日興、日目とは時の国家最高権力者の邪心(邪宗教)を死身弘法(身を殺して法を広める)の精神で正す(立正安国)折伏行を実践していました。それは"生命とは何か"を会得する修行をする僧侶としての職務でした。当時の僧侶の修行とは信心(信)と折伏行(行)と生命学(学)でした。
天地人の命を会得した僧侶は天皇•幕府要人•貴族•民衆をも指導できる神力がありました。いわば人生指導のプロフェッショナルだったわけです。
生業の雑事に追われて僧侶のように信行学を実行できない当時の信徒は、土地•家•金銭•衣類•食べ物等を寄進して僧侶の生活を助け、そのかわりに病気快癒•生活苦•諸問題の解決を僧侶に相談したのです。
僧侶と信徒は職業の違いでありどちらが上でも下でもなく互いに助け合っていたのです。
それなのに宗門には何時から僧侶は上座•信徒は下座というような差別が生まれたのでしょうか。それは正しくありません。
池田創価学会では信徒が上•僧侶は下というような風潮がありました。ですから陰では「くそ坊主」と僧侶を呼んでいました。これは正しくありません。
いずれにせよ現在の僧侶が国民(国家権力者)から人生指導のプロフェッショナルとして認定されていない事は事実です。今の僧侶は信心(信)と折伏行(行)と生命学(学)の修行を怠っていて民衆指導の知恵が無いからです。生前の民衆に頼りにされることがないのです。
やっている事と言えば、死者を祀って供養を受けること位でしょうか。
例えば心の奥底が念仏の悪人が地獄の相で死んだとして、僧侶が法華経(末法の)で祈っても成仏はしないという事です。それは死体(物質)はいくらでも成仏の相を装えても、すでに心は飛び去っていてそこにはないからです。僧侶の所化の祈りとはそういうものです。
能化の主は仏です。僧侶や信徒の差別に関わらず、この娑婆世界に関わって日蓮と師弟不二の仏道修行をした者こそ成仏(久遠の命を得る事)できるというのが正しい日蓮仏法の解釈だと私は思います。

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阿部日顕

2010-07-26

阿部日顕

阿部日顕は日蓮正宗大石寺の67世の法主です。
ちょうど池田大作創価学会と細井日達日蓮正宗66世法主とが日蓮教義のくいちがいで対立していたとき学頭職にありました。日達逝去後学会寄りの日顕が宗門の法主となりました。
しかし宗門と学会のギクシャクした関係は修復できませんでした。
池田大作がどんなに教義を逸脱したとしても頭にきてカット(cut)することは正しくありません。除名処分することなく訓諭をたれて更生を期さすことが貫首としてのまた日蓮の使いとしての役目であります。
池田大作と喧嘩して法華講総講頭を罷免したまでは権能の範囲としても、純粋な信心をしている全学会員を巻き添えにして期限を切って宗門に帰さない者は破門という前代未聞の暴挙をなしたことは万死に値します。
その上、全国の学会員・法華講員が必死の思いで御供養して集まった355億円で建立した正本堂を、新しいまま解体してしまいました。こんな三毒(貪り・怒り・愚か)の性情の改革できていない法主などに日蓮の意が相承されている道理がありません。
宗門と学会の己義の争いで、どちらが正しいのか分からず素直に日蓮正宗創価学会の信徒として信仰していた者は路頭に迷ってしまいました。この分裂によって夫は宗門・妻は学会、あるいは妻は宗門•夫は学会の信者となって離婚の悲劇を味わった者は世界に数えきれません。
それは教祖日蓮とはまったく関係のない争いごとでした。
「時の貫首為りといえども仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。」(日興遺誡置文)
またこの争い事によって日蓮正宗創価学会の寺院だった万年久護本尊を擁する保田妙本寺(鎌倉日桜)は大本山妙本寺として独立してしまいました。
日桜師とは親しく懇談いたしましたがこの争い事にはあきれかえっていました。
日蓮正宗大石寺にある"いちえんぶだい総与”の大御本尊なるものは宗門九世日有の贋作であります。
その理由は文永11年12月に顕された万年久護本尊(大御本尊)は、弘安2年11月に日興に与えられた記録が残っております。また日蓮一期に造立の全曼荼羅のなかで大御本尊と明記されているものは、この久護本尊のみであります。
しかし弘安2年10月12日に造立されたとされる本門戒壇の大御本尊なるものは日興に相伝された記録がまったくありません。そんな大事な大御本尊があったとしたら必ず何らかの記録が残っているはずですが、それが九世日有の時代になるまで全くないのであります。
日興跡条々事に「日興が身に宛て給わる所の弘安2年の(大御)本尊は日目に之を相伝す。云々」とありますが、これは相伝記録の全くない"いちえんぶだい総与"の大御本尊ではなく、日興が相伝されて身に宛てていた万年久護の大御本尊のことであります。
道理から考えても日蓮仏法は広く浅く(すぐ消える)の世界(いちえんぶだい)広布よりも、一人の心の中に万年にわたって久護される本尊の方が適当であります。
その上、この"いちえんぶだい総与"の(本門戒壇用の)大御本尊なるものは、高祖日蓮から九世日有までの間は、何人の言及した記録もありません。それが偽物の証明であります。
それと富士大石寺門流の血脈は三代で切れております。
三世日目は京都への天奏の途上美濃の垂井で急死しました。付き添いの日郷と日尊にも相承する事ができませんでした。
相承が日郷と日道によって争われ、南条(時光)家の血を引く日道が親戚を見方につけて日郷を追い出した形になりました。数年間日郷が大石寺法主だったことを裏付ける文書も見つかっております。
ともあれ日郷は万年久護本尊と日蓮の御影等の宝物を持って安房の保田妙本寺に去り富士興門派(日興門流)と称しました。ですから保田妙本寺の歴代の貫首にも血脈はないのであります。
そこで大切な事は血脈相承の口伝や書面ではなくて、日蓮が時代を超えて釈尊の法華経の相伝を受けて末法の法華経を樹立したように、各々方が日蓮に相伝して末法の法華経の正しい生命観を樹立することでしょう。

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池田大作

2010-07-26

池田大作

池田大作は創価学会の三代目の会長で今は名誉会長です。
戸田城聖が敷いたレールの上を走って全国組織を一時は800万の巨大なものにしました。
その功績は何だったのでしょうか。
池田は入信前から西洋哲学(外道の教書)に凝っていましたから、普通の信者から一目置かれたのではないでしょうか。戸田も入信前は外道のキリスト教に造詣が深かったから二人は馬が合ったのだと思います。
日蓮との師弟不二の関係を築くべきだった二人は、日蓮を棚に置いて外道的な師弟不二の関係を結んだのでした。そして池田は後継者の男子部には「池田先生は我が胸の中に居ます」と言わしめて、日蓮と男子部の師弟関係であるべき間に割って入って、自分との師弟関係をつくっています。
体の弱った晩年の戸田を大白牛車に見立てた籠に担いで総本山を行くとき、戸田を見上げた池田の卑屈な笑顔は忘れることができません。戸田に心酔し虎の威を得た池田の全権掌握は進んで三代会長になりました。
三代会長候補だった石田次男は池田の説法を「内外一致の妙法」とも「六師義•外道説」とも批判していますが、この観点は当を得ていると思います。
「内外一致の妙法」とは良く観じたものです。僕もかつて本部幹部会で池田が「ゲーテは仏法と同じ」と言ったり、ヘレンケラーやホイットマンを賛辞したりして内道と外道の教書を同等に論じていた時点で池田を悪魔と直感したこともありました。
日蓮の書には次のように記します。
理の一念三千摩訶止観の第五に云わく「今世多く悪魔の比丘有って戒を退き家に還り駈策を懼畏して更に道士に越済す、復た名利をもとめて荘老を誇談し仏法の義を以て偸んで邪典に安き高きを押して下に就け尊を摧いて卑に入れ概して平等ならしむ」(開目抄上)。
これは日蓮仏法を持つ者の中に悪魔の信者があって師弟不二の戒律を破り、また名聞名利を求めて荘子や老子(外道の教え)を誇らしげに談じて、仏法の意義をもって盗んで邪教の経典に安んじ、高い内道を押して下劣な外道に就け、尊い仏教を砕いて卑しい外教(仏教以外の教え)に入れ概して平等にしてしまうという意味です。
池田大作は正にこの悪魔の信者とそっくりです。
高い日蓮仏教の神髄を砕いて下劣な外道教に訳して海外の31もの大学•学術機関で講演して仏法に無知な者から賞賛を得ています。これは仏法者として最も恥ずかしいことです。
日蓮の書には次のように記します。
「例せば外典•外道等は仏前の外道は執見あさし仏後の外道は仏教を聞き見て自宗の非を知り巧みの心•出現して仏教を盗み取り自宗に入れて邪見もっとも深し」(開目抄上)
要するに、邪宗教の者に仏の知恵を盗み取られてしまい邪宗教の外道がますます繁盛して日蓮仏教は埋没してしまうという事になります。
池田の名聞名利の風は激しくてトインビー、コスイギン、周恩来、チャウシェスク、マンデラ、江沢民、ゴルバチョフ、小泉純一郎、温家宝等との会見しました。
創価学会員が癌や他の重病や経済苦などで苦しんでいるという現状でありながら、
自分は100を超える勲章を日本をのぞく世界各国の外道たちから貰って誇らしげにしているのは、どう見ても仏のしぐさとは見えません。
日蓮は池田大作の師匠です。池田は日蓮に師敵対しています。
日蓮と同意ならば日蓮が行ったように一人で邪宗教による病苦と貧乏に苦しむ日本国万民をまず救わなければなりません。
末法の法華経の流布によってまず日本人が健康で豊かになって、日本が世界一の文化国家になったら、その時は諸外国の人々も日本を見習って日蓮仏法を取り入れて世界中が光に満ちた仏国土となる事でしょう。

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戸田城聖

2010-07-26

戸田城聖

戸田城聖は牧口常三郎の跡を継いで二代目の創価学会会長となりました。
戸田は牧口の価値論に対して生命論を唱えて折伏を展開しました。
論議講説で自余を交えることは日蓮の本義に反することです(日興遺誡置文)。日蓮の御書にそれらが余すところなく説かれているのに論議を構えることは未学の説(天台の学文)となります。
1943年、戦中に治安維持法と不敬罪で逮捕され投獄されました。牧口と戸田の獄前の折伏は貧者の一灯のごとく、貧乏と病苦に喘ぐ庶民を救うべくした真心からの折伏で、尊い仏道修行だったと思います。それこそ日蓮仏法布教の神髄の座談会であったかも知れません。


しかし、獄後の折伏大行進は日蓮仏法とは異質のものとなってしまいました。
その根底には、中国の故事に倣った覇権思想が混入してしまっています。
戸田は創価学会を組織化しました。青年部を集めて水滸伝に因んだ「水滸会」を催して幹部を養成し、三国志に因んで自身を諸葛孔明になぞらえて日蓮を蜀漢の劉備玄徳に見立てて無血宗教革命と称して日本制覇の野望に燃えたのでした。その水滸会から池田大作が育って三代目の会長になりました。
このような宗教制覇といい、公明会から公明党を組織しての政治における天下取りの戦いといい、これはもう正しく日蓮仏法の布教活動からは遠く外れた事でした。
戸田は「組織は戸田の命よりも大事だ」といいましたがそれは偏見です。時には組織より個人の命の方が大事となる時もあります(組織悪のとき)。
日蓮仏法の「総別の二義」における師弟不二が悟れていなかったのだと思います。悟れていれば血脈の途絶えている総本山に尽くす事もなく、組織をつくって覇権争いをする権門の戦いをする事もなかったでしょう。
日蓮と同意なら一人立って民衆のまっただ中で現代の国家権力者である国民の一人一人と対話する法戦で先導者となっていたことでしょう。

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牧口常三郎

2010-07-26

牧口常三郎

牧口常三郎は戸田城聖とともに創価教育学会をつくりました。現在の創価学会の生みの親です。
学者らしく人生の目的は価値創造にあるとしてカントの「真•善•美」の価値体系に対して「美•利•善」の価値を唱えました。
彼は「真理は認識の対象であり価値の当体ではない。主体と客体の中にこそ価値は存在する」としてカントの説く「真」の代わりに「利」の価値を説きました。
しかし、これは「真」を真理と決めつけての暴論です。確かに真理は認識の対象でしかありませんが真実は主客の価値を有します。
嘘に対して真実は価値があります。
例えば医者が癌と知りつつ「癌じゃ無かった」と嘘をつく事が価値があるという考え方は「嘘も方便」という爾前経の教えです。法華経では真実を明らかにして、宿命転換して癌を治すことの方が価値があるとします。
一方、彼の唱える「利」の価値を検証してみましょう。
確かに「害」に対して「利」は価値があるように見えますが「利」の追求はどうでしょうか?
物を利用する(善悪に通じます)
人を利用する(害悪です) 人を利用しない(有善です) ご利用ください(金儲けの企みを感じます)
利益を上げる(必要なだけ利益を上げるのは善ですが必要以上に利益を上げるのは悪です) 
利益を上げない(必要以上に利益を上げないのは善ですが必要な利益を上げないのは悪です)
暴利をむさぼる(限りある資源(お金)ですから貧者をつくる大悪となります)
暴利をむさぼらない(小欲知足が大善です)
利を奪う(ドロボーです)
利を与える(善人に利を与えるのは価値がありますが悪人に利を与えるのは価値がありません)
利を与えない(悪人に利を与えないのは価値がありますが善人に利を与えないのは価値がありません)
比べれば「利」よりも「真」の方が価値がありそうです。
創価学会が日蓮仏法から外れたのは、どうやら牧口常三郎が立てた「美•利•善」の価値観の中の「利」の価値のあくなき追求に問題があったような気がします。最近は利害関係の交友が昔に比べて多くなったようにも思います。
日蓮仏法の価値観は「正•善•美」です。「美」より「善」の、「善」より「正」の価値が尊いと思います。
「名聞名利」を捨てて「正義」につ付くのは善ですが「正義」を捨てて「名聞名利」に付くのは悪です。

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神風

2010-07-26

神風

神風の由来をご存知でしょうか?
神風とは鎌倉時代の蒙古襲来のとき、敗戦色濃い戦況を覆して吹いた一夜の大風のことです。竹槍の邦軍に対して大砲を轟かせ博多湾に圧勝する蒙古十万の大敵艦隊が、一夜にして海の藻くずと化してわずか数隻が逃げ帰ったという史実です。この時の大風が伝説となって神風と呼ばれています。
若い方々には知らない人も多いでしょう。第二次世界大戦で大本営は神風特攻隊を組織しました。片道燃料しか積まない零式戦闘機で、敵の航空母艦に体当たりして損傷与えようという自爆作戦でした。
将来のある学徒を出陣させて死に追いやった無謀な作戦でもありました。この真剣な作戦を終戦間際の悪あがきにしてしまったのは長崎・広島での原子爆弾の炸裂でした。
大本営の期待した神風は吹かなかったのです。それどころか一瞬にして20万の人々を吹き殺した爆風が吹き荒れたのでした。この消せない史実をどう捉えたら良いのでしょうか?
事の真相はこうなのです。 執権北条時宗の法華経を用いない謗法によって引き寄せる蒙古襲来を予言し、改宗を迫った日蓮に対して幕府は佐渡流罪の刑に処しました。すると予言は的中、あわてふためいた幕府は真言師に討伐を祈らせましたが効果がありませんでした。いよいよ敗戦が色濃くなると幕府は日蓮を赦免して佐渡から呼び戻して蒙古討伐を懇願しました。
日蓮が法華経で祈ると、神は法華経を守るという誓文のごとく味方して一夜に大風を吹かせたのでさしもの大敵艦隊も全滅しました。
それに対して第二次世界大戦での大本営の祈りは、法華経を用いない天皇を中心とする国家神道の膀法でありました。それゆえ八幡大菩薩の善神は治罰して原子の爆風を吹かせたので、神州不滅を唱えていた軍部の神国日本は全滅しました。
日蓮は鎌倉幕府を三度諫めても末法の法華経を用いないので、将来の日本は他国に攻められて全滅するであろうと予言しました。その予言が的中したのが今回の米国に攻められての敗戦でした。
天地の神は善人には大菩薩と現れて守護しますが悪人には鬼神と現れて滅ぼします。この理がわかれば莫大な国防予算も軍備も要らなくなります。末法の法華経である日蓮仏法を奉じ神軍の守りを得れば宇宙が味方して天下無敵となるので北朝鮮の蛮軍も攻めて来れなくなります。悪人ほど神の怒りと敵を恐れて防備を固めようとするものです。
病気は正と邪との体内戦争です。正法の人の心には善神が宿り健康を保持し、邪法の人の心には魔神が宿り病気を助長します。万法帰一の正法•法華経で諸天善神の守りを得れば生命力が旺盛となりあらゆる病気は完治します。
物療の医者は諸天善神を信ぜず人工•物理的な処置だけしか施しませんから名医と言えども根本療法ができません。お金で現代医療の粋を集めればあらゆる病気が治ると思うのは錯覚です。その証拠として医療費の国庫負担は増加の一途をたどり、薬で増加させた病人からの収益で病院は白亜の大殿堂が林立しているではありませんか。
信仰とは行動です。振る舞いです。日蓮と我との間に何人も介在させてはいけません。一対一の信行学です。日蓮の行動を我が行動とするところに正しい信仰があります。
日蓮を大聖人と崇め奉って別格扱いにして褒め殺し、己義を構えて会派をつくり池田名誉会長(創価学会)とか浅井会長(顕正会)とか日顕法主(日蓮正宗)とか庭野会長(立正佼成会)とか言って日蓮よりも己を信じさせて、外道的に信者とお金を集めている者たちは法盗人です。そのような者たちの行動を模範とすれば妙罰を受けるばかりです。
信仰は個人の心の中の問題です。会派•宗派の教育指導や団体圧力は日蓮の本義になじみません。
日蓮の本義は日蓮との師弟不二なのです。一人で率先して現在の国家権力者である国民の一人一人が持つ邪悪な思想を折伏することです。会派や宗派をつくっての徒党を組んでの折伏ではありません。agitatorの外道者は要らないのです。
日蓮は国家権力と一人で戦いました。200人の衆を頼んで扇動者として戦ったのではありません。一人立って北条時宗(封建社会だったから)を中心とする国家権力と戦って先導者となったのです。
日蓮の弟子と称するなら一人立ってこの民衆救済の戦いに二陣三陣と続くべきでしょう。
貧富貴賤の差別もなく、あらゆる人たちが平等に日蓮仏法を師弟不二で実践して宿命転換して行く機会が今の自由と統一の社会原理の中には存在します。

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発迹顕本

2010-07-26

発迹顕本

時は鎌倉時代 ところは由比ケ浜 今の竜口刑場跡です。
時の執権北条時宗は 「念仏無限•禅天魔•真言亡国•律国賊」と下して法華経への改宗を勧める日蓮を 首の座に据えました。
軍事奉行の平左衛門尉を棟梁とする200騎が日蓮の草庵を襲い捕縛しました。
鎌倉八幡宮前を通る馬上で 日蓮は「法華経を守る約束を破るのか!」と神を一喝しました。
馬の口にすがって悲しむ四条金吾に 法華経に身を変える喜びと金吾の信心を讃え「死後の同類」を語り 日蓮は静かに首の座に付きました。
午前3時の漆黒の闇の中 戸惑っている首切り役人に 「夜明けなば見苦しからん 急ぎ首を跳ねよ」と声高らかに言い放って 日蓮は静かに正座していました。
意を決した役人が いざ日蓮の首を跳ねようとした瞬間 江ノ島の東方に毬のような光り物が天から降ってきて 辺り一面が真昼のように明るくなりました。
太刀取り役人は 目が眩んで3間も遠のき 馬の驚き立ちで武士達はころげ落ち 居並ぶ面々は恐ろしさのあまり地にひれ伏したということです。
これは日蓮の法華経の信心が天を動かした大事です。
法華経の行者を守ると誓約した八幡大菩薩の神力の働きで日蓮は身を守られたのです。
この不思議な出来事に 「日蓮は仏様」と感じた約半数の騎馬兵の面々が法華経に帰依したということです。

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中島みゆき

2010-07-26

中島みゆき


11月30日、赤坂ACTシアターの「夜会」へ行って来ました。
第一希望の誕生日の抽選券が当たっての幸運でした。
最近はなぜか運が良いのです。
先日も、じゃん拳の勝ち抜きで2万円相当の商品券を80人中の5人に残って貰いました。
そんなわけでつきまくっていますが、その上また「棚から本マグロ」ならぬ幸運も手に入れました。
生まれてはじめての「みゆきコンサート」を勇んで聞きに行きました。
若い頃は高橋真理子のファンでよくコンサートに行っていました。
中島みゆきは昭和53年ごろのオールナイト日本をよく聞いていましたが「今日も元気だ男が美味い」というフレーズを聞いて浅はかにも誤解していました。
その後リリースされた「悪女」の真意も理解できずにいました。
ところが2年前、図らずも図書館で借りた「パラダイス•カフェ」のCDを聞いていきなり大ファンになってしまったのです。
それから毎日のように「みゆきエッセンス」を聞いてきました。
だから当然、「夜会」は新曲と古曲を交えたコンサートと思っていました。
ところが「夜会」は単なる歌のコンサートではありませんでした。
それはもう和製のオペラ芸術でした。
好きになっていた歌が聞ける期待は裏切られました。が、それ以上に舞台に繰り広げられた魂の表現は見事でした。
実のところ紫綬褒章を受けたということで権力への迎合を危惧していました。
しかしその不安は払拭されました。
彼女の命題もその芸術も健在だった。
何とも言えない無上の幸せの夜をプレゼントして頂きました。
みゆきさんありがとう。
「夜会」を出たところで滋賀県に勉強に行っている19歳の娘から「電話だけだけどお誕生日おめでとう」という電話がかかってきました。
家に帰って12時頃安らかに寝ました。

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因果の理法

2010-07-26

因果の理法

醜さを嫌う者は美しくなる。
醜さを好む者は醜くなる。
美しさを嫌う者は醜くなる。
美しさを好む者は美しくなる。
悪を嫌う者は善となる。
悪を好む者は悪となる。
善を嫌う者は悪となる。
善を好む者は善となる。
邪を嫌う者は正となる。
邪を好む者は邪となる。
正を嫌う者は邪となる。
正を好む者は正となる。

一面(部分)の真実は邪(歪み)となる。
全面の真実は正となる。
一面(部分)の嘘は正となる。
全面の嘘は邪(歪み)となる。

害を与えることは悪である。
害を与えないことは善である。
利を貪ることは悪である。
利を貪らないことは善である。

正を邪(歪)すことは悪である。
邪(歪)を正すことは善である。

正は全体観
邪は部分観

仏は全体観
魔は部分観

正を立てるのが仏の命
邪を立てるのが魔の命

仏は利他の一念
魔は利己の一念

仏魔は利他のために魔を切る
魔仏は利己のために仏を殺す

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生まれた理由

2010-07-26

生まれた理由


なぜこの世に生まれてきたのだろうか。なぜ日本に生まれてきたのだろうか。何をするために生まれて来たのだろうか。
生まれ落ちてからの記憶を辿ってみても明確な答えは見いだせません。
直感でうすうす感じていることがあります。それは自分を変えたいことです。そして世の中を変えたいことなんです。
自分と環境•環境と自分。自分がなければ環境はない•環境がなければ自分はない。日本に縁した理由は自分にあります。自分を変えるには日本が一番適した国だったのです。
子供の頃から病弱でした。19歳のとき病気で自殺を企てました。死ぬのを思いとどまらせたのは「死ぬ気で頑張れば病気は治る」という天の声でした。
画家になる夢がありました。小説家になる夢もありました。それが病弱の宿命で断たれました。
千葉の片田舎から上京して49年たちました。
カイロプラクティック医学を修めてセルフカイロプラクティックを行い、正しい生命法で命の洗濯をして病弱の宿命は転換できました。