正木ブログ of 日蓮仏法

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妙本寺9.jpg

正気と邪気

 脳内正義(日蓮直信)で随他意(邪宗容認)対話をする事は謗法である。もしこの謗法を犯せば、現代社会は邪宗教の氾濫によっていたるところ邪気に満ちているので、邪気とともに病魔に冒される。そんな時は、三大秘法の御本尊に祈れば病魔は退散し正気と本気にもどり健康がよみがえる。

法道院での対話  

 12月25日(日)、日蓮正宗法道院(池袋)へ対談に行った。茶話室での相手は阿部女史、山中氏の2名であった。創価学会と保田妙本寺の非については同意であった。しかし、日蓮正宗の非については二人とも一切認めない。此の辺に宗門のカルト性を見るのである。
 67世阿部日顕が、創価学会池田大作と喧嘩して、平成3年11月28日、日蓮正宗創価学会に対して「破門」を通告した。平成4年7月4日、日蓮正宗東京第二布教区宗務支院長高橋信興名で池田大作を「信徒除名処分」することを決定、新宿区の大願寺で記者会見した。
 日顕貫主が、池田大作法華講総講頭を信徒除名処分とした事は良しとして、末端の日蓮正宗創価学会員も含めて全員を破門•除名処分とした事に対して、前代未聞の悪事であるという私の主張に対して、二人は同意せず、あくまでも日顕貫主の正当性を主張した。わたしは池田名誉会長とそれに追従する幹部のみの破門でよいと思うのである。私等、末端の日蓮正宗創価学会の信徒には「期限付きの破門通達」など来なかった。いつの間にか破門になっていた事を、わたしは8年後、曽根女史と折伏対話メールで知ったのである。日顕貫主が、日蓮正宗創価学会員の赤誠の御供養で建てられた正本堂を新しいまま解体してしまった点を指摘したが、二人が無反省だったので少々言葉を荒げて私は怒った。
 本門の本尊については、「本門戒壇の大御本尊」の妄信であり、二人は聞く耳を持たず、対話の糸口すら見つからなかった。二人は、血脈相乗の正当性を主張しましたが、私は3祖日目上人までで、日道師以降は血脈相乗の義は無いと主張した。内付では代えられない。ほかにも60世日開(にちかい)、67世日顕にも嫡流の疑義がある。
 本門の題目については、私は牧口常三郎創価教育学会会長の唱え始めた題目をもって本門の題目と思う。その故は、あの邪教神道を奉じた念仏者東条英機率いる軍部政府の弾圧にも屈せず、神札を受けず、三障四魔と闘って、「発迹顕本」を叫んで74歳で獄死した牧口先生の、一身を法華経に殉じた行動を讃えるといった。すると、山中氏が「牧口氏は戦争に加担した」といった。私は「それは悪者のいいがかりである。牧口先生は神札を受けなかった。それに引きかえ宗門では(62世)日恭法主が神札を受けたではないか」と言った。よく知らない事を風聞で言う山中を私は大声で叱った。牧口先生が間違えられやすいのは国粋主義者だった点にある。先生は国粋主義者の志賀重昂氏(地理学者)の門を叩いた。明治の国粋主義と昭和の国粋主義とは意味が違うのだ。明治の国粋主義とは「日本語を捨てて英語にすべし」とか、「西洋人との混血を進め人種の改良をすべし」などという白人至上主義が横行していた風潮に対して反発し、日本文化を西洋文化と対等にしようとするものであった。言わば日本文化を守るための平和的国粋主義だったのである。しかし、昭和の国粋主義とは、日露戦争勝利以後、皇室史観の高揚により国土拡大政策をとり、排外的な日本文化至上主義が形成され他文化の蔑視につながり、全体主義•ファシズム・人種差別・民族差別・排外主義などの右翼的国体論を持つ国粋主義に至ったのがそれである。言わば、当時の植民地主義的世界観と相まって侵略的国粋主義となった。現在でも、その流れを汲んでYouTubeの「桜チャンネル」では、靖国•神道•皇室史観にもとづく右翼的国粋主義によって、中国•北朝鮮•NHKなどの左翼を批判し続けているのである。
 私は現在、正立(正しい方の味方)中立の立場で、韓国•北朝鮮•中国•米国などのグローバル化による侵略的な外道文化から日本文化の自立を守るために平和的国粋主義者となって戦っている。明治の国粋主義は欧米の侵略的な外道文化から平和的に日本文化を守るためのものであった。鎌倉時代の日蓮聖人も侵略的な蒙古襲来から日本文化を護った平和的国粋主義者であった。それに対して宗門は大東亜•太平洋戦争中、卑屈なほど軍部政府に媚び諂って(植民地化の風潮にあったとは言え)満州国侵略戦争に加担し大量殺人行為を正当化していたのである。日蓮正宗こそ皇室史観の右翼的国体論に組みしファシズム(極右の国家主義)に加担したのである。宗門は日本文化を守る方の平和的国粋主義ではなく、神道•皇室•右翼の侵略的国粋主義に同ずる日蓮仏法破戒を行っていた。それ故に、62世日恭法主は仏罰で焼け死んだのである。
 私は「法道院ではいまだに創価学会の真似をして役職組織(支部長•地区部長等)を用いているのか」聞いた。山中氏は「良いものは取り入れなければ」と答えた。私「役職組織は戸田城聖の己義であり、平等な信心の世界を壊すものだ」。山中「(布教の伸びに)結果が出ている」。私「仏法はただ広く浅くひろめればよいのではない、個人の成仏が先である」。山中「それは我見である」。私「その言葉そっくり返す」。日興遺誡置文の「下劣の者為りといえども我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。」の文証に当てはめれば、役職上下の指導体制が「日興が末流」にあらざる事明瞭である。
 御受戒式に参列した。信徒の子供たちであろう数人と、中国人の名前1名、見た感じインド人1名の受戒が挙行された。日蓮聖人の御書は難解である。法華講員ですら「論語読みの論語知らず」なのに、外国人に御本尊を下付して何の意味があると言うのだろうか?
 法道院流では広く浅く布教する。多くの信者を集め多額の供養を蓄積する。客殿を荘厳し、日蓮聖人の御本尊ではなく、日顕本尊を祭って、迹門の勤行を為し、他門流の私にも勤行唱題を強要したのである。対談で説得されたのなら、私は言われなくとも随自意で題目はとなえるのだが、「先ず拝め」とは、それは無いだろう。折伏弘教とは一対一の随自意の対談で、相手の邪義を完膚なきまで破折しなければならない。それなくして、ただ形だけの入信を強要し、むりやり受戒式に据え「爾前権教の不忘語戒を捨てて法華本門の不忘語戒を信じ奉るやいなや(導師)」「信じ奉るべし(一同)」と徒に結縁灌頂をなしても心服随従する道理がない。又、そのような謗法のままの者を入信させて施を受ける事は「謗法の供養を請く可からざる事」という日興遺誡置文に反するので「日興が末流に有る可からず」となる。

科学者の宇宙論は錯覚

宇宙開発競争

 世界はいま宇宙開発競争が盛んである。最近は安い労働力を提供して儲けた中国共産党財閥も参戦し始めた。Space Raceといわれたこの宇宙開発レースは、冷戦時代アメリカ合衆国とソビエト連邦(ソ連)の間でスパイ合戦で競われた。宇宙にはロケット船でなければ行けない。初期のロケット技術開発は第二次世界大戦での軍事的優位性(ミサイル応用)から始まった。軍事優位性が戦争抑止力と働き心理的に政治•世論を支配した。1957年10月4日、ソ連によるスプートニク1号の打ち上げ成功は競争の幕開けであった。初戦から優位に立っていたソ連ではあったが、アメリカが1969年7月21日アポロ11号による月面着陸を成功させて優位に立った。しかし、この宇宙開発競争は、他国スパイ目的の衛生技術、ロケットによる核兵器運搬手段、ICBM(大陸間弾道ミサイル)といった軍事戦争目的も兼ねていた。ロケット技術に関しては、1920年代からのドイツ人科学者たちの研究開発が基礎となっている。すなわち、宇宙開発競争は無神論の科学技術者を多数有する国の優位性によって競われてきた。2009年現在、人工衛星打ち上げ実績を持つ国は世界で9カ国である。ソ連(ロシア)、アメリカ、日本、フランス、中国、イギリス、インド、イスラエル、イランなど。宇宙開発が平和利用の名の下にあったとしても、その必要性が有るのだろうか?

何のための宇宙開発か?

 物理科学者が普遍妥当性(the universal validity of a theory)を信じて止まない宇宙存在は実は仮諦である。生命の空仮中の三諦のうちの仮諦のみにとらわれている一面の真理なのだ。一面の真理は正しくない。三世の生命観に立脚すれば、一時的に中空に浮く生命の仮の姿が科学者の見ている宇宙である。だから、何億人もの民衆を餓死させるに等しい巨費を投じて宇宙開発に興ずるのは愚の骨頂である。いま世界の動向は、精神的にはキリスト教民主主義、物理的には科学者を中心にして動いている。西洋に発した物心二元論は究極は生命を分断する魔の思想である。物心分断は即死である。宇宙開発はなぜ必要なのか?それは、生命に無知な科学者(また凡夫)の興味の問題だけである。三世の生命を知り尽くした仏には全く無縁な事である。私にも外道思考の時代はあった。その時はこう考えた。「いつか地球が滅亡するとき他の星に移住する必要がある」と。しかしである。ロケットで他星へ行くには選ばれた人数しか行けない。何十億人もの民衆を餓死させるだけの巨費を投じても、おそらく数千人しか行けないだろう。馬鹿げた話である。しかし、ユダヤ教の信者の中にはノアの箱船の創世記を信じて、世界の富をかき集め「ノアの箱船」のように他星で創世するなどどいう事をまともに考えている独善的な凶者がいるかも知れない。ともあれ、宇宙開発には莫大な費用がかかる。世界中で何千兆円ものお金をかけて宇宙開発をするくらいなら、そのお金で全人類が救えるのである。

日郷上人の保田妙本寺と日道上人の富士大石寺  

分離の原因は何か

大檀那、南条時光の子孫の土地相続問題が絡むか

 東坊(日目上人の在住した蓮蔵坊がある)地をめぐる妙本寺と大石寺の72年間に及ぶ係争について述べる。東坊地一帯は、日郷師が東坊敷地地頭の南条五郎左衛門時綱(南条時光の五男)より正式に寄進されている。西坊地は日道師が西坊敷地地頭の南条三郎左衛門(南条時光の三男)より正式に寄進されている。それなので当分の間は何の係争もなく仲良くしていたらしい。さしたる法義上の争いは無かったのだから分裂の理由は見当たらない。
 大石寺三祖日目上人が宰相阿闍梨日郷と太夫阿闍梨日尊を伴い天奏のため京都へ向かう途中、美濃国の垂井で急死したため相承儀式ができずそれ以後は唯授一人の血脈相承はそこで完全に途絶えた。血脈を持たない日郷師(郷師)と日道師(道師)の二頭指導が困難だったことは想像に難くない。「郷師が四代を継いだ証拠文献が京都で見つかった」と修郷師(日誠上人)から伺ったことはあるが本当か嘘か定かではない。また「南条時光の血を引く道師を中心とする僧侶団と和合できなかったため郷師は万年久護本尊・聖教・御影などの宝物を持って安房の国へ去り顕徳寺(現保田妙本寺)を創立した」とも聞いたが、これも妙本寺側の言い分であり正しいと断定はできないが「さもやありなん」とは思う。なぜなら郷師は生涯をとおして富士興門派として日蓮正宗大石寺と同義であったからである。分かれる理由もなく分かれなければならなかったのは何だったのであろうか。
 わたしは以前、「相承が郷師と道師によって争われた時、大檀那の南条家の血を引く道師が親戚を見方につけて郷師を追い出した形になった」と思い込んでいた。しかしどうもそうではないらしい。両師とも相承が無いのだから争いになる道理は無い。そして教義上も同義である。
 となれば考えられるのは土地相続の問題である。南条五郎左衛門時綱は遺誡にも郷師への東坊地寄進を子息に伝えている。これは西坊地の南条三郎左衛門(兄)に対して東坊地は子孫に残したいとの御意だったと思う。事実、その後の係争は郷師が遷化した後、東坊地をめぐる土地争いが起きて今川氏(戦国武将)に仲裁を依頼したりするのである。
 後世、下種の勘繰りで郷師の保田妙本寺(旧顕徳寺)を謗法寺のようにいう者が大勢出てきた。本来、保田妙本寺と富士大石寺は同義の兄弟寺なのである。それ故に郷師の健在中は土地争いは無かった。郷師は顕徳寺(保田妙本寺)のほか東坊地と重須談所(北山本門寺)をも管理していた。大石寺が郷師亡きあと東坊地の所有権を主張したものと思われれる。そのような経緯も知らぬまま「妙本寺の謗法は確定的」として「大石寺に従わない者は皆謗法」と下してYouTubeで盛んに活躍している樋田某という傲慢な人がいる。

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四個の格言(日療釈)  

「念仏無間•禅天魔•真言亡国•律国賊」

 邪悪に生きても「南無阿弥陀仏と唱えれば死んで成仏する」という念仏の教は道理に反している。死んだら仏というのは念仏が言いだした虚構である。たとえば人を殺しても泥棒を働いても強姦しても大酒のんでも嘘をついても南無阿弥陀仏で成仏しちゃったら悪人が得をする。やったもの勝ちである。そんな理不尽はない。虫けらでもアリンコでも生命はすべて法華経因果の法則(律)に貫かれている。偶然や虚構はない。一念三千羅列である。三世のスパーンで見るならば悪因は悪果となって無間に地獄の苦しみに沈む。だから三世の法華経因果律を無視した念仏は無間地獄の業因となる。
 外から見ると偶然に見えることでも生命内は三世を貫く法華経因果律で動いている。だから外からいくら律してもダメ。その理が解らない法律家が勝手に凡夫の人間法をつくって律しようとしている。鎌倉時代、極楽寺住職に忍性良寛という律宗の法主が居た。250戒を堅く持っていると豪語して平穏無事に住して聖人のごとくふるまって幕府に取入っていた。日蓮仏との【雨乞い対決】で負けたことで責められると日蓮仏を殺すようにと幕府に讒奏したものだ。すでに平穏無事と相違して250戒を破っている。そのように戒律で身を律しても心は律せられるものではない。律宗•法律家の邪宗教たる所以である。凡夫がつくった国法で仏を縛る律は国賊の教えである。仏の生命法があれば国法は要らない。仏が首相になれば王仏冥合となり仏国土(万人平等の理想の国土)となる。
 外から律するのではなく今度は己心に忠実になって三世常住の法華経因果律を無視するのは天魔の業である。わがままで己の心が仏だと勝手に決めて一切環境を支配しようとする。己心が仏だと悟れば経文は一切いらないという邪義を構えているのが禅宗である。その昔、禅宗の武士が意に添わない人間を一刀両断に切り捨てたのはこの邪気ゆえの仕業である。禅は天魔の業と断ずる。
 真実を言うといって嘘をつくのが真言宗である。真言宗の始まりは月氏(インド)から唐(中国)にわたった善無畏三蔵が釈迦仏の教えの真実をつたえるといって創った。法華教に傾倒していた三蔵が宗祖釈迦仏に背いて宗義を立てたのである。はじめは一念三千の義は無かった。天台宗を退転した一行という坊主が真言宗に落ちて天台の一念三千を伝えた。それを自義とする真言密教の一念三千は天台宗から盗んだものと言える。自義と偽って主師親の天台法華宗を下して曰く「第一真言、第二華厳、第三法華」と。法華宗を第三の劣と虚構して主師親を下す真言は亡国の教えである。

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日蓮仏法で宿命転換  

大功徳とは病気の宿命を転換し健康になること

癌体質を克服する

 私は11月30日で73歳になる。今までに二度の癌を克服してきた事は、「自己紹介」又「病気」のページで縷々述べた。ふだんはもう治ったと思っていた。いや、病名のつく癌はもう治っているだろう。ところが、癌体質はまだ治っていないと思う。2ヶ月くらい前、13年ぶりに下血があった。今日は、少し血の混じったコロコロうんちがやっと出た。この現象をどう捉えるか。私は宿命として癌体質だという事であろう。遺伝性を疑えば、父(57歳)の死因は白血球減少で脾腫があったと医者から聞いたので血液癌だったと思う。母は原因不明と言っていた。
 昭和49年の直腸癌(病気ページ参照)は、築地癌センターで診断されたが、平成10年の下行結腸癌(大腸癌)は自分で命名した。下血が鮮血ではなく、どろっとしていて黒ずんだ便だったからである。ところが今度はコロコロうんちにわずかな血が混じっているのである。
 22年間カイロプラクティック医学にたずさわってきた今言えることは、少なくともわたしの癌体質の原因は遺伝性ではないだろうということである。4歳頃縁側から落ちて頭を打ち上部頸椎(C1)を歪め、また29歳の時、相撲を取って投げられ下部頸椎(C5-C6)を亜脱臼した事、その原因によって腰椎アーチが消失し胸椎アーチも腰椎アーチも消失する。事実わたしの胸椎下部から腰椎下部(胸椎9番から腰椎5番)は後方変位(腰椎前湾過少症)している。サブラクゼーションは胸椎9、10番神経、腰椎3番、4番神経当たりにあると思われる。の故に結腸、陰部大腿神経に行く脳脊髄液が減少する。すると腸管細胞の出すゴミが捨てきれない。そして結腸に癌性腫瘍ができたものと思われる。そうと解っても自己カイロプラクティックでは限度がある。なかなか自分の骨格矯正は難しい。だれかホールインワンテクニックの上手なカイロプラクターに委ねなければ腰椎アーチは回復すまい。世間で一般的に行われている米国式カイロプラクティックは分割式•部分的なものだからダメである。ただ骨をボキボキと動かせば脊椎ラインのS状が正常に回復するということは絶対にありえない。動かせば動かすほど生理的なS状の脊柱ラインが消失して棒状(垂直)になるだけである。そうなればパーマネントダメージ(永久に治らない)の脊柱となってしまう。それは絶対にさけたい。
 やはり自分でできる最善の自己カイロプラクティックと正食を実践しつつ、日蓮仏法のさらなる実践で宿命転換をはかっていくのが最善の方策と考えている。小生がこの病難を克服して何歳まで生き、所願満足の人生を送れるかが正しい仏法の証明ともなるに違いない。

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九死に一生  

寝ていて頸椎を傷める

自己カイロにてよみがえる

 11月1日の夜は午後8時ごろ寝たと思う。翌日朝5時頃トイレに立ったら、めまい、ふらつきで歩けなかった。吐き気もおそってきて胃液を吐いた。思い当たるのは下部頸椎の古傷の損傷である。夜寝る時はたしかに横向きで寝た。いつの間にか仰向けになっていたらしい。そば殻のあつい枕である。仰向けに寝れば下部頸椎が折れた形となる。それがわざわいの元らしかった。
 11月2日になると一層症状はひどくなった。何十回と吐いた。水をのんでも吐いてしまう。今度ばかりは死ぬかと思い各方面へ連絡した。
 29歳のとき、日蓮正宗創価学会男子部の班長をしていた。その後、男子部のリクレーションで三峰山(邪宗神社のある)へ行き相撲を取った。5人抜きで僕は3人までは投げ飛ばした。4人目に出てきたのはでっぷり太った体格であった。疲れた僕は力が入らずあっさりと投げ飛ばされた。脳天から落下したらしい。「うーう」と息がつまって「これで終わりか」と思いつつ意識を失った。気がつくと隊長のMさんの顔が「大丈夫か」と覗いていた。あとで聞いたら、相手は日大の現役の相撲部員だったのである。
 それからというもの、しばらく右手が中風のように震えて字が書けなかった。それは何年かたって題目の功徳で治った。しかし、頸椎の5番と6番の椎間板の損傷が激しいようであった。手でさわると大きな段差がある。もう少し横から落ちていたらおそらく即死だったろう。それでも、医者にかからず日蓮仏法の生命の法則に任せていた。
 時々、頸椎が気持ち悪くて自殺したくなった。手で押すと頸椎5番が「ぐぐー」と沈み気持ち悪い。これを何とか直さないといけないと思っていた。後日、痛風の持病を治す為に整体、カイロプラクティックを勉強し身につけた。確か、大阪での講習会でケール先生だったと思う。オープンクリニックで頸椎6番をアジャストしてもらった。なかなか動かなくて終了後も手技をしてもらってやっと動いた。それからしばらくは体調がよかったのでカイロプラクティックで治ると確信した。
 後日、独自のテクニックを開発した。正木ホールインワンテクニックで、自己調整の手技もつくった。それで、頸椎の損傷をカバーしていたのである。
 2日の夜、うつぶせでアゴを支えて自己カイロ調整をしつつ寝た。早朝1時ごろだったと思う、アゴと腰が痛くなって目が覚めた。それから、工夫した自己カイロを施して寝た。
 3日の朝、吐き気は無くなっていた。めまい、とふらつきは未だある。妹とO君が心配してきてくれた。O君に血圧を測ってもらうと210/113であった。自律神経測定値はかなり正常値に近かった、これはおそらく自己カイロ調整の効果があったからだと思う。2日は計れる状態ではなかったが、もし計っていたら相当高かったに違いない。

3日昼、血圧=210/113
4日朝、血圧=168/100。
5日朝、血圧=169/103。
6日朝、血圧=132/97。
7日朝、血圧=153/88。

8日、歩くとき多少のふらつきはあるものの、めまいは無く、食事も正常の玄米菜食ごはんを食べることができた。自転車に乗って買い物に行こうとしたら、20mも走らないうちに道路の真ん中ですってんどうと転んでしまった。


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法道院との対話-3  

2011.10.16

By Nichiryo

108.jpg池袋の法道院へ行く

法道院にて午後1時30分より6時30まで

日蓮直宗は正木日療一人。
法道院側は八木日照住職(日蓮正宗総監)、矢島講頭、沖田氏他4名。

以下に相方の主張の要趣をまとめた。敬称は略す。

B_No_01.gif日療
問う。大石寺が本門戒壇の大御本尊と主張する【一閻浮提総与大御本尊】は九世日有上人時代に建立された板曼荼羅であり日蓮聖祖の御作ではない。有師の贋作である。その故は、有師以前の宗祖より八世日影上人までと、有師以後の二十六世日寛上人までの間、誰もその存在について言及してないし、また相伝書も全く無いからである。
本門寺の戒壇堂にかけ奉るべき大御本尊であるなら有師と寛師の二人しか記さず、以後、40世以降の歴代にわずかに記事が認められるというのは可笑しい。その事はいかがか。
B_No_06.gif矢島ほか4名。この時は日照住職は在席しなかった。
矢島氏は私の問いには答えないで、【聖人御難事】の「此の法門申しはじめて今に二十七年•弘安二年なり、仏は四十余年•天台大師は三十余年•伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其の中の大難申す計りなし先々に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各々かつしろしめせり。」の御文を引いて、弘安二年に出世の本懐を遂げたというのは【本門戒壇の大御本尊】であると主張。その証拠は日興跡条々の事の「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」であるとした。
B_No_01.gif日療
「弘安二年の大御本尊、、、本門寺に懸け奉るべし」は二通りの解釈ができる。大石寺版御書年表に記載された弘安二年の大御本尊は二つある。一つは弘安2年10月12日「本門戒壇の大御本尊を造立す」であり、二つは弘安2年11月25日「日興に上行所伝三大秘法口決を相伝す」の後に「日興に文永11年12月の本尊(万年久護大御本尊を給う」である。
【聖人御難事】の其の御文には、二つのどちらとも明記されておらず、それを「本門戒壇の大御本尊」と断ずるのは我見である。
B_No_06.gif沖田
万年久護大御本尊は文永11年の作である。弘安二年の御本尊ではない。
B_No_01.gif日療
日蓮聖人は文永8年9月12日の竜の口の法難後、2年間に及ぶ佐渡流罪を経て、文永11年3月8日幕府の赦免状を得、4月8日平左衛門尉頼綱に第三回国家諫暁を果したが幕府は用いない。「三度諌めて用いずば去る」の古事にならい6月17日身延の沢に庵室を成し、弘教を後世の弟子に託した。そして万人救済のために文永11年12月に顕されたのが【万年久護大御本尊】である。
日蓮一期の弘法の総決算である其の大御本尊を、弘安二年、後事を託せる弟子日興を得て、上行所伝三大秘法口決の相伝とともに日興に与えて出世の本懐を遂げられたのである。
B_No_06.gif矢島
「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」の大御本尊は【本門戒壇の大御本尊】である。
B_No_01.gif日療
大石寺の義によれば、弘安2年9月21日、駿河熱原の農民、神四郎等20人が竜泉寺行智等に讒せられて幕府に送られる熱原法難が起きて、それを不憫に思った日蓮聖人は「弘安2年10月12日本門戒壇の大御本尊を造立した」としている(大石寺版御書年表)。
しかし、59世堀日亨上人監修の創価学会版年表によれば「弘安二年十月戒壇の大御本尊を末法万年の為に書示せらる」とだけある。そして、その御本尊は又の名を「一閻浮提総与の大御本尊」とも云って対告衆は弥四郎国重という実在しない架空の人物なのである。
果たして、本当に日蓮聖人はそのような状況の中で、死罪となった三人を悼んで大御本尊を造立されたのであろうか? そして誰に相伝したと云うのか。相伝書も記載もない。
しかも、その後1ヶ月余り経った弘安2年11月25日、日蓮聖人は後事を託す弟子として日興上人を定めて上行所伝三大秘法口決を相伝し万年久護大御本尊を授与したのは何故であろうか。よく思索すれば大石寺義に無理があるのが解ると思う。
B_No_06.gif法道院側5人
この点に関して明快な答えはなかった。
B_No_01.gif日療
東坊(蓮蔵坊)地をめぐる72年の係争については、郷師は東坊地一帯を、東坊敷地地頭の南条五郎左衛門時綱(南条時光の五男)より正式に寄進されている。それなのに道師(西坊)側は郷師を追い出すとはひどい。
B_No_06.gif日照
郷師は立派な方であった。郷師が東坊(蓮蔵坊)地にただ住んでいるだけだったら問題は無かった。しかし、新御堂を建立して対抗したので追い出された。
B_No_01.gif日療
さしたる法義上の争いは無かったのだから仲良くして行けた筈だ。どうも檀那である西坊敷地地頭の南条三郎左衛門(南条時光の三男)と五郎左衛門時綱との土地相続争いに巻き込まれた気もする。
B_No_06.gif日照
その通りだと思う。
B_No_01.gif日療
日蓮直宗の目的は、寺院や会館を創って信者から金品の御供養を受けることでは全く無い。保田妙本寺の万年久護大御本尊(本門の本尊)を大石寺の戒壇堂(本門の戒壇)に掛け創価教育学会の牧口常三郎の題目(本門の題目)を唱える事である。即ち、三大秘法を成就する事が唯一の目的である。
B_No_06.gif6人
無言であった。

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日蓮正宗法道院との対話-2  

2011.10.2

By Nichiryo

我が家2.png正木室のあるアパート

2名の方々が来宅

3度目の対話となる。矢沢氏が岡田氏(女性)とともに来宅。
【対話の要趣
前回の正木の、1「本門戒壇の大本尊はにせもの」と、2「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。」との発言の答えを持参したとの事であった。
<双方の言い分の要約>
矢沢氏の主張
1.の問題については、「日蓮正宗入門」を示して、その中の【聖人御難時】の一節

「此の訪門申しはじじめて今に二十七年、弘安二年なり、仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」を文証としてあげて、出世の本懐として「本門戒壇の大本尊」を顕されたと主張した。

正木 : 「弘安二年に聖祖が出世の本懐を遂げられたという事はその御文ではっきりした。しかし、その出世の本懐は将来本門寺の戒壇堂にかけ奉るべき大本尊と拝されるが、それが何かは明記されていない。」
矢沢 : 「本門戒壇の大御本尊の事である。」
正木 : 「大石寺の云う本門戒壇の大御本尊とは一閻浮提総与の大御本尊(板本尊)の事であろうが確証がない。」
矢沢 : 「。。。」

正木の主張
弘安二年には、二つの大御本尊があった。一つは、万年久護大御本尊(紙製)と、二つは一閻浮提総与大御本尊(板製)である。

万年久護については相伝がある。日蓮大聖人年表に、「弘安2年(1279年)11月に、【日興に文永11年(1274年)12月の本尊(万年救護本尊)を賜う。」と、日蓮高祖から日興上人への相伝が明らかに記されている。

また、日興跡条々事 元弘2年(1332年)11月10日に、
日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」とある。
身に宛て給わる大御本尊とあるので紙製の万年久護大御本尊の方と考察するのである。板製の一閻浮提総与大御本尊は重くて身に宛てる事は出来まい。

また、万年久護には御讃文がある。【大覚世尊後入滅後経歴二千二百二十余年唯示月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以佛智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之】というのである。

しかし、一閻浮提総与については相伝がない。ただ、昭和27年4月28日発行の創価学会版の御書には「弘安二年十月、戒壇の大御本尊を末法万年の為に書示せらる」とあり、平成6年7月16日発行の大石寺版の御書には「弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を造立す」と、後から付け足した事が歴然とするような記載がある。不審の第一は、日蓮正宗五十九世法主堀日亨上人が編纂した創価学会版の御書と日蓮正宗大石寺版の御書の記述に差別がある事である。一致していなければ正しくない。

弘安二年当時は、広宣流布は夢の先、三祖ともに【本門戒壇の大御本尊】とか【一閻浮提総与】と云う名を記すはずはない。日興上人も「大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」とだけ言っている。

いや、昭和二十年までは【戒壇の大御本尊を万年の為】とか【本門戒壇の大御本尊】とか云う表現は用いられていなかった。わずか1万数千の檀家衆の大石寺が、創価学会の広宣流布の時流に乗って数十万、数百万の信者を抱えて、気宇壮大となってから、【一閻浮提総与大御本尊】と呼ぶ様になったはずである。

もっとも、板本尊そのものは九世日有上人時代に既に忽然と顕われていた。がしかし、二十六世日寛上人の代まで板の大御本尊が話題にも上らなかった。

大石寺の板大御本尊には、【一閻浮提総与】とか【本門戒壇の大御本尊】などとは何も書いて無い。日蓮高祖の御讃文は全く無い。相伝も無い。ただあるのは【弥四郎国重】なる正体不明の対告衆が記されているのみである。弥四郎国重は国民を代表する者と聞いたが、そんな曖昧な大御本尊はあるべき事ではない。

2.の問題「四代日道上人への血脈相乗がなかった。」についての問答は、長文と成るのでここでは割愛して「日蓮直宗ページ」で後日明かす。

今度は私の方から、後日、八木日照法道院住職と対話に行くと約束をして別れた。

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法道院の戸別訪問折伏を受けて対話-1  

2011.09.18

By Nichiryo

我が家2.png正木室のあるアパート

4名の方々が来宅

先日、日蓮正宗法華講の方々が3名で拙宅へ訪来した。家庭訪問折伏にである。その際、縷々話合ったが決着がつかず本日の再来訪となった。

本日は、矢沢氏ほか3名(内女性1名)が来宅、狭い我が家で対話した。相手方は私のホームページのプロフィールだけ見て内容は見ていないという。なので日蓮直宗に対する質問は無かった。

【対話の要趣
正木:「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。また、日郷上人へもなかった。」
矢沢 : 「相伝書はなかったが「内示があった。」
正木 : 「その証拠を示してほしい。」
矢沢 : 「、、、、、」
正木 : 「今度でいいから。」
矢沢 : 「日目上人ともあろう方が相伝を残さないわけがない。」
正木 : 「それは希望論である。内示云々なら日郷上人が内示があったともいえる。」
矢沢 : 「日郷上人がいっていたのか?」
正木 : 「日郷上人はいっていないが、内示ならそうもいえると言う事だ。」
矢沢 : 「日蓮正宗は法灯連綿と続いてきた。」
正木 : 「そんな事はない。60世の日開上人の時、論争と裁判沙汰が起きた。また、歴代の中に京都要法寺の謗法が入っている。」
矢沢 : 「、、、、、」明快な反論は無し。
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正木 : 「学会員と法華講員が御供養した350億円で建立した正本堂を未だ新しいまま解体してしまった日顕は万死に値する」
法華講員 : 「腐食して取り壊さなかったら危なかった。」
正木 : 「いいわけである。名のある建築家が設計した建物が2、30年しか保たないわけがない。」
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正木 : 「大石寺版御書の年表と日興跡条々事の文証を示しつつ【万年救護本尊】が日蓮-日興-日目と相伝書があるのに対し、【本門戒壇の大御本尊】は相伝書も口伝も存在しない故に偽物である。」
矢沢 : 「日興跡条々事の【弘安2年(1279年)の大御本尊】とは、本門戒壇の大御本尊の事である」
正木 : 「それは切り文の勝手な解釈である。全文は【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし】である。要は、【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊】とある所である。日興上人が身に当てていたのは紙の【万年救護本尊(106cm×57cm)】しかない。第一、あんなに大きな板本尊の【本門戒壇の大御本尊】を身に当てていられるわけがない。」
法華講員 : 「、、、、、」
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法道院は正木の御受戒を受けたお寺でもあるし、結婚式を法道院であげた時、早瀬総監に式を取り持ってもらった因縁ある寺院であった。そんなわけで和気あいあいと話は進んだが、噛み合わないことも多々あった。

今度は私の方から、八木日照住職に対話にいくと約束して別れた。

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甘露と思っていたら、台風だったと聞いた  

2011.09.21

By Nichiryo

tennen-noho-7.JPG7月頃の仏法菜園

天の雨

天が泣いている。喜びの涙か、しとしとと草木にやさしく降り掛かる。
菜園に蒔かれた種の喜ぶ声が聞こえる。土に上でのそっと蝦蟇がえる動く。
夜の雨で昼は晴れるのが理想的だ。

土の上の種が芽を開いた朝7時、雨降りでカラスの対話は止んでいた。
夜明けを告げるカラスの対話がなかったために寝坊した。
天気の良い日はカラスの対話で朝は6時に起こされる。

天の歓喜の涙はやさしいが、怒りの涙は激しい暴風雨。

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我が家  

2011.09.22

By Nichiryo

我が家8.pngChez Moi

狭いながらも

5Kフローリングの狭い我が家である。老青年1人の住居にしては十分なのだ。収納付きベッドがあるので結構衣類も収まってる。5万8千円の家賃で裏庭のちょっと日当りの悪い5坪くらいの所を大家さんの許可を得て菜園にしている。試験的な仏法【無作】農場である。成果は随時リポートしている。

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虫で全滅した菜園  

2011年9月23日

By Nichiryo

DSCN2257.JPG今朝の仏法菜園

虫の被害のなかった野草•雑草、虫の被害が大きかった野菜

6月に開園したした我が愛する菜園が、ここへ来て名知らぬ6センチくらいの黒っぽい虫(黒と茶の斑模様がある)に食い荒らされて全滅した。はじめにバジルが、次に大葉が、そして苦瓜(ゴーヤ)が、そのあとオクラが葉を食われた。はじめの頃はオクラの実はたくさんできて、刻んで納豆にまぜたりみそ汁に入れたりして食べ、うまくて感謝感激だった。しかし、あとで採ったものは実が茶色に変色した方に曲がったいた。なんでそうなったのか解らなかったが、それが虫に食われた所為だとわかった。曲がった内側を食べている虫の現場を目撃した。現行犯で逮捕したかったが、野草•雑草がまったく食われていないので、しばらく放置して様子を見る事にした。




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